本の感想|世に棲む日日(一~四)

司馬遼太郎著 文芸文庫 1973→新装2003.03.10
長州は、薩長土肥の幕末維新の雄藩。山県有朋、伊藤博文、井上多聞をはじめ、維新をやり抜け、栄達を得た志士の多い藩で、いい印象はなかった。陸軍の母体をつくり、日露戦争など明治期までは維新の香りが残ったものの、太平洋戦争へと突っ走ったのも陸軍。敗戦後、なぜか山口県出身の多くの首相が日本の舵を握る。まだまだ維新の勝ち組の脈が続いているようで、いままで遠目で眺めてしました。でも、「この国のかたち」から、松陰と晋作を描くこの本を手とりました。

松下村塾、幕末維新史に必ず登場します。松陰主催の塾は、1856年8月から59年5月までの2年9か月と主宰されました。藩士・農民・町民・職員まで門人になり、あるいは出入りする、さらにかすめる人物が時代を切り開きます。ここで松陰は、「尊王攘夷」を説きます。ペリーの艦隊に渡航を企てたように、外国を知り外国の技術を採り入れないことには、国が立ち行かないことが分かっていながら、まずは攘夷です。幕府に喧嘩を売るために・けしかけるために「尊王」です。幕府をとことん困らせ、新しい国を築こうと。結果みれば正しかったようですが、「討幕開国」とはとても言えなかったのでしょうね。260年の平和ボケ、歴史をしらず神国と思ってきた徳川江戸武士には。それでも、そのためにどれだけの人が犠牲になったのか。もともとの原因は、幕府の鎖国主義・ことなかれ主義・祖法第一主義にあったのですが。

松陰は、貧しく厳しく育てられました。杉家から吉田家の養子となり家業の山鹿流兵法を学んでいきます。九州・江戸・東北・信州と旅に学びながら、兵法ではなく国の在り方を思想として練り上げていきます。幼さ・人の良さもあり、最後は江戸で処刑されます。もの凄い生き様です。どこからこの資質が生まれたのか。一つには、「聡明ということのみが本来陽気のたねになりうるものであることを、彼女ほどその一身で具現した婦人はあるいはめずらしかったかもしれない」とい司馬さんが描く母親だったかも知れません。

松陰の食事の様子が描かれています。江戸における留学生活(嘉永4年/1851.05~)で藩から一日米4合一勺の支給がありました。「松陰は節倹ということをもって重要な自己教育の眼目においていたために、毎食の副食物は、金山寺のなめみそと梅ぼしだけにした。式日だけはとくべつにぜいたくし、鰹節を削って醤油をかけて繰った。もっともかれのこの時期の金銭出納簿をのぞいてみると、江戸滞在中、二度ばかり、「鰯三十二文」「鰯十六文」という項目がある。」栄養バランスなんてあったもんじゃない。これで志操を練るんだから、昔の人はエライ!

(二)の後半の”お雅”から晋作です。
晋作は、萩城下で戦国から続く名門武家の一人息子として生まれる。何不自由なくプライド高く育ったようですが、父の・家族の不安のタネだった、と。「父の小忠太は、「虫をおこさねばよいが」という言葉をださなかった日はない。晋作には少年のころから、なにを仕出かすかわからない鬱懐のようなものがあることを、小忠太はしっている。」
何が原因で、何が晋作のなかに育っていったのか。同じような藩士のなかで、ただ一人何か飽き足らないものを秘め育んでいったのか。司馬さんは、そこまで追求しない。どのみち、詮索しようがないからか。
松下村塾で松陰の薫陶を受けてから、久坂玄瑞ほど思想性の評価を受けず、学びながらも時期を待てといわれ、師の処刑を聞く。この辺りから、急に自己を大きくしていったようです。
他藩に興味なく・頼らす、一藩で日本を世界に対峙させようとする気概はどこから。一人で幕府をけしかけ・喧嘩を売り、幕府の弱さを国中に知らしめ、討幕に導く。伊藤博文がいう「動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し。衆目駭然、あえて正視するなし」という激しさで時代を変えた。一人突き抜けていた。なぜ? 革命と遊蕩がひとつものだった晋作です。

(四)の”浮世の値段”の晋作の詩句がおもしろい。
神武に起こって従(ヨ)り二千年
億万心魂 散って煙と作(ナ)る
愚者英雄 俱(トモ)に白骨
まことなるかな浮世の値三銭
人生プラスマイナスして、価値は1000円ぐらいかと。

”総督夫人”の稿で、「晋作にも、言いぶんがある。お雅に対してでなく、お雅も両親も、そして嫡男東一をふくめた家族というこのえたいの知れぬ存在に対してであった。—―そういうものを相手にしていては男子はほろびる。と、正気でおもっていた。」
稼ぎのいいやり手の男は、同じように思っている人が案外多いのでは、と思います。

晋作、1839年9月27日生まれ、67年4月14日病没。27年6か月18日の人生でした。長州藩政務役の長井雅樂の暗殺を返上して1862年5月に上海渡航して大脱皮、それから亡くなるまで4年と11か月。
松陰、1830年8月4日生まれ、59年10月27日刑死。29年2か月24日の人生でした。1954年3月ペリーの艦隊に乗って密航を企てるも失敗、それから亡くなるまで5年と7か月。
イエス・キリスト、BC3年12月から2年1月の間に生まれ、33年4月3日磔死。35年4か月ほど人生でした。27年秋に洗礼を受け宣教活動を開始、それから亡くなるまで5年半ほどでした。
社会・世界をうごかすほど人物は、人知れぬ深い潜伏期間のあと、5年ほどで大爆発するのですね。

脇田 幸三

建築家 株式会社綜設計代表
岐阜市生れ 名古屋市在住
1989年11月綜設計設立
主に住宅・マンション・医院を設計
名古屋工業大学大学院修了
テーマ:“大きな人を育て、大きな人生を歩む”住まい
趣味:読書、朝のランニング