本の感想|この国のかたち 一

司馬遼太郎著 文芸文庫 1993.09.10

司馬遼太郎さん(1923.08.07~1996.02.12)が亡くなって24年になります。もうそんなに経ったの、という感じ。熱心なファンではなかったけど、いくつか手に取った小説は惹きつけられ、一気に読んだ記憶です。司馬歴史観・人物像に、「へぇー、そうだったの!」という感じででした。

思いついて、「この国のかたち」を通して読むことにしました。時代の狭間で、人の数倍の努力があったのでしょうが、恵まれた環境だったように思います。古書・漢籍・現代文学、モンゴル語など外国語の知識、仏教をはじめとする宗教の理解、世界の共時的な歴史・文明・文化への理解、などなど。好奇心が旺盛で、疑問に現場・書籍・人を漁り、歴史・文化の流れを透徹した目で見ようとする姿勢でした。
読みながら共感した箇所を中心に感想(◆)を書きます。

第一巻は、以下のように24の話から成ります。
1この国のかたち 2朱子学の作用 3”雑貨屋”の帝国主義 4”統帥権”の無限性 5正成と諭吉 6機密の中の”国家” 7明治の平等主義 8日本の”近代” 9尊王攘夷 10浄瑠璃記 11信長と独裁 12高貴な”嘘” 13孫文と日本 14江戸期の多様さ 15若衆と械闘 16藩の変化 17土佐の場合 18豊臣期の一情景 19谷の国 20六朝の余風 21日本と仏教 22日本の君主 23若衆制 24苗字と姓

◆新たな国家が2度、外圧で生まれた、との指摘。律令国家と明治維新国家をさしますが、太平洋戦争敗戦国家もそうじゃないかな。その後も外圧のテコがないと日本は動きませんね。
1 この国のかたち、より。
”ついでながら、7世紀のこの”外圧”といっても、隋の煬帝が高句麗を攻める(611~14)というふうな具体的な外圧ではなく、日本にやってきたのは、多分に情報としてのものだった。情報による想像が、恐怖になり、共有の感情をつくらせた。この点、19世紀、帝国主義的な列強についての情報と、それによって侵略されるという想像と恐怖の共有が明治維新をおこさせたということに似ている。13-14p”

◆日用生活用品の雑貨物しか売り物がないのに市場を求めて列強にみならって帝国主義にのめり込んでいく。動力源が石炭から石油に移り変わりに乗り遅れて、焦ってインドネシアの石油狙いで太平洋戦争に。そこには、大衆の熱気もあった、と指摘。怖いものです、感情の表出が。マスコミの扇動もありましね。軍部の突っ走りが一番の元凶でしたが。
3 雑貨屋の帝国主義、より
”ここに、大群衆が登場する。
江戸期に、一揆はあったあが、しかし政府批判という、いわば観念をかかげて任意にあつまった大群衆としては、講和条約反対の国民大会が日本史上最初の現象ではなかろうか。
調子狂いは、ここからはじまった。大群衆の叫びは、平和の値段が安すぎるというものであった。講和条約を破棄せよ、戦争を継続せよ、と叫んだ。「国民新聞」を除く各新聞はこぞってこの気分を煽りたてた。ついに日比谷公園でひらかれた全国大会は、参集するもの3万といわれた。かれらは暴徒化し、・・・一時は無政府状態におちいった。・・・
私は、この大会と暴動こそ、むこう40年の魔の季節への出発点ではなかったかと考えている。この大群衆の熱気が多量に―たとえば参謀本部に―蓄電されて、以後の国家的妄動のエネルギーになったように思えてならない。44p”

◆昭和ヒトケタから同20年の敗戦までの十数年は、ながい日本史のなかでもとくに非連続の時代だった、と指摘。自ら泥沼に進んでいった、何とも嫌な取り返しのつかない15年ほどでし
た。直接には軍部の統帥権乱用が原因でした。
4 ”統帥権”の無限性、より。
”「参謀」 という、得体の知れぬ権能を持った者たちが、愛国的に自己肥大っし、謀略をたくらんでは国家に追認さっせてきたのが、昭和前期国家の大きな特徴だったといっていい。53p”
”ごく最近になってその理が異常膨張した昭和初期の統帥権の”法解釈”ではないかと思うようになった。59p”

◆統帥権の乱用には、マニュアルがあったのです。
6 機密の中の”国家”、 より
”『統帥綱領』のほうは昭和3年、『統帥参考』のほうは昭和7年、それぞれ参謀本部が本にしたもので、むろん公刊の本ではない。公刊されれば、当然、問題になったはずである。内緒の本という以上に、軍はこの本を最高機密に属するものとし、特定の将校にしか閲覧を許さなかった。・・・
『統帥参考』のなかに、憲法(註・明治憲法)に触れたくだりがある。おれたちは―という言葉づかいでではむろんないが―じつは憲法外なのだ、と明快に自己規定しているのである。 72-73p”
”・・・之を以て、統帥権の本質は力にして、その作用は超法規なり。
・・・「輔弼の範囲外に独立す」と断定しているのである。75p”
”従って統帥権の行使及びその結果に関しては。議会に於いて責任を負わず。議会は軍の統帥・指揮並びにこれが結果に関し、質問を提起し、弁明を求め、又はこれを批評し、論難するの権利を有せず。76p”

◆”明治維新は徹底的な革命だった”のである。95p と。
7 明治の平等主義、より
”封建制が一挙に否定されたために、”階級”としてとくをしたものはなく、社会全体が手傷を負いつつ成立したのである。88p”
”もっとも例外があるかのような印象をうける。つまり東京へ出て役人になった者だけがー太政官政府だけが-うまい目を見ているとされ、津々浦々から憎まれたことである。この憎悪のため明治初年の東京政府(太政官)は、不平の大海に浮かぶ孤島のようなものだった。89p”

◆江戸後期は、日本の近代が始まっていのたのだと。少し見直しました。
8 日本の近代、より
”江戸中期以降の日本の識字率はあるいは世界一だったかも知れない。
子弟に文字を習わせるというのは士族をのぞき、・・・農村や町方のこどもが、奉公したときに帳付ができるようにねがってのことなのである。無学なら船に乗っても船頭にはなれず、商家につとめても手代・番頭にはなれず、大工に弟子入りしても棟梁にはなれなかった。これも、近代というに近い風景である。98p”
”また大阪や江戸で劇場がさかえ、相撲が常設的に興行化されていた。・・・これらがすべて大衆の木戸銭で運営されていた。99p”
”また、モノの価値を決めるのは権力ではなく相場である。ひとびとは知らずしらずに合理主義者にならざるをえない。江戸中期ごろから、ひとびとの自覚なしに、”近代”という潮が腰まできていたのである。100p”
”荻生徂徠、安藤昌益、三浦梅園、富永仲元、山片蟠桃、・・・
仲元は、仏教という夾雑物の多い思想を人文科学的な冷厳な態度で洗い込み、ついに、日本が珍重してきた法華経や阿弥陀経などをふくむ大乗仏教というのは釈迦の教説ではなく、釈迦以後500年たってだれかが創作したものだとした(出定後語)。101p”
”ヨーロッパにおける近代精神を箇条書きにすれば、一つは宗教的権威の否定だろう。そのことは、右の仲元にみられる。第二に科学的合理主義と人格の自律性だが、そのことは右の蟠桃と梅園が代表している。第三に人間主義があげられるが、これは井原西鶴が代表するといっていい。
もし明治維新成立のとき、日本じたいの”近代”の要素(または風土)の上に欧米の近代を接ぎ木したとすれば、ずいぶんおもしろいことになったはずである。102-103p”

◆伝統芸能には、まったくの無知ですが。
10 浄瑠璃記、より
”江戸期を理解するのに重要なことは、日本語をみがく教範として武士階級は謡曲をならい、町人階級は浄瑠璃をならいつづけたことだった。
・・・在所から都市に出てきた一人前になるには個人の倫理的な修行が必要で、信用される人間をめざさねばならず、江戸人は町人も男をみがいていたのである。123-124p”

◆社会をグーンと引き上げる独裁者なら、悪い選択肢じゃないと思いますが。
11 信長と独裁、より
”日本史は、独裁者に強い反撥をもった歴史といっていい。137p”

◆世界の先端を走る企業トップは失敗を恐れず新たなことに挑戦していく資質が求められているという。強い個性が求められている。そこで日本的組織としての強み?は、どうでしょうか。伝統的には人格者が上に立ち方向性だけを指示し、後はコアスタッフがのびのびと持ち分野を伸ばすことだった? ということらしいけど、これからはスピードとチャレンジが必要では?
12 高貴な”虚”、より
”大概大概/テゲテゲという方言が薩摩にある。テゲだけでもいい。「将たる者は、下の者にテゲにいっておく」・・・上の者は大方針のあらましを言うだけでこまごましたさしずはしないのである。そういう態度を、テゲとかテゲテゲとかといった。138p”
”このことは薩摩の風土性というよりも、日本人全体の風であるらしい。140p”
”テゲであるべき人物は、人格に光がなければならない。人格は私心がないことが必要で、それに難に殉ずる精神と聡明さが光源になっているものだが、それとはおよそ逆な人間-自己肥大した人格-が首領の座につくと、日本人は神経的に参ってしまう。141p”
”世界史的典型としての英雄を日本史が出さなかった―というよりもその手の人間が出ることを阻みつづけたーというのは、われわれの社会のほこりでもある。・・・
日本史における自己肥大は信長をもって限度いっぱいと考えていい。145p”
” どういうことなのか、日本人は、老荘を学んだわけでもないのに老荘的なところがあって、虚(無あるいは空といってもいい)を上に頂きたがる。また虚の本質と効用を知っているようでもある。虚からすべてがうまれるとでも思っている。146p”

”その後の日本陸軍は、くだらない人間でも軍司令官や師団長になると、大山型をふるまい、本来自分のスタッフにすぎない参謀に児玉式の大きな権能をもたせた。この結果、徳も智謀もない若い参謀たちが、珍妙なほどに専断と横暴ー辻政信をみよーのふるまいをした。それらは太平洋戦争の大きな特徴にもなっている。147p”

◆江戸期の経済や人文科学の多様性は、明治維新に役立ったようです。
14 江戸期の多様さ
”いまの社会の特性を列挙すると、行政管理の精度は高いが平面的な統一性。また文化の均一性。さらにひとびとが共有する価値意識の単純化、例えば、国をあげて受験に熱中するという単純化へのおろかしさ。価値の多様性こそ独創性のある思考や社会の活性を生むと思われるのに、逆の均一性への方向にのみ走りつづけているというばかばかしさ。これが、戦後社会が到達したというならば、日本がやがて衰弱するのではないか。162-163p”

”たとえば、こんにちの私どもを生んだ母胎は戦後社会ではなく、ひょっとすると江戸時代ではないか、と考えてみればどうだろう。
私は江戸時代の商品経済の盛行が、主として商人や都市付近の農民たちのあいだで合理主義思想をつくりあげさせたと思っている。
それら、社会の実務層(農・工・商)から思想を吸収したひとびととして、まず新井白石や荻生徂徠がいる。次いでかれらよりもいっそう合理的で独創的だったのが富永仲元、海保青陵、あついは山片蟠桃など人文科学的な思想家たちが出た。163-164p”

”士族の教育制度という点からみても江戸期は微妙ながら多様だった。その多様さがー少し抽象的な言い方になるが―明治の統一期の内部的な豊富さと活力を生んだといえる。171p”

◆日本人の公意識が若衆宿からきてるとは驚き。中国の血族神聖化が地域意識を生まなかったとは、儒教の根は深いのでした。
15 若衆と械倒、より
”たしかに日本人はつねに緊張している。ときに暗鬱でさえある。理由は、いつもさまざまの公意識を背負っているため、と断定していい。
鎌倉武士が自分の一所(所領)を命を懸けたように、いまもたとえば一百貨店の社員は他の百貨店に対し、常時戦闘的な緊張を感じている。・・・
「日本人はいつも臨時態勢でいる」と、私の友人の中国人がいったことがある。173p”

”日本なら、土俗ともいうべき公/ムラ意識から、となりのムラに負けるなと自分を鼓舞したり、同僚を煽ったりするところだが、中国の人民公社にはおよそそういう気勢が見られず、いわば怠けていた。174p”
”つまり、日本の古俗である若衆宿とおなじだった。175p”

”このように、若衆という武力もふくめた集落の結束体のことを、日本の中世では「惣」とよんだ。惣は神聖でしかも濃厚に自治的だった。・・・
この惣こそ日本人の「公」(共同体)の原形といってよく、いまなお意識の底に沈んでいる。     178-179p”

”儒教は地域を公としない。孝の思想を中心に、血族を神聖化する。
つまりは血族主義の儒教に馴致されて、古き越人の末裔たちは同姓をもって同血とし、械闘の目標を他姓にむけるようになった。これでは国家を公とする近代国家が熾らないとなげいたのは、孫文だった。181p”
”孫文は、「三民主義」のなかで、中国の一般人民には「ただ家族主義と宗族主義があるだけで、国族主義がない」と指摘した。181-182p”

◆藩が公意識を育んだ!
16 藩の変化、より
”長州藩ほどでないにせよ、江戸末期にはすでに各藩とも藩をもって公器と見、法人とみる気分が濃くなっていた。・・・192p”
”同時に、藩ということばの多用を通じ、公意識が大きく成長していたことをもうかがわせるのである。194p”

◆偏差値競争の弊害が述べられている。
17土佐の場合、より
”土佐藩は、魅力的である。
すくなくとも他の二藩とはきわだって異なる藩風をもっていた。たとえば内面に緊張(藩士の階層的の反目問題)をかかえていたこと、それに下士階級に天性というべき自由児が多かったことである。
さらには、言語表現の能力が高く、文章家がすくなくなかった(ところが、いまは高知県の偏差値は全国最下位だそうである。江戸期の土佐藩は多様な人材を擁することで一目おかれたが、いまはただ一種類のモノサシのもとで、この県の若者たちは閉塞している。江戸期と現代という二つの文明を考える上での材料として考えていいのではないか。195-196p”

”「倜儻不羈(てきとうふき)」0という漢語は、まことに異様な字面が四個もならんでいてなじみにくい。・・・ある種の独創家、独志の人、あるいは独立性の強い気骨といった人格をさす。 196p”
”・・・中江兆民、竜馬、・・・
そういう場合、江戸期の多様さを思うと、心づよくなる。この多様さは、ある時期のヨーロッパの諸国間のちがいをさえ、ふと思いあわせたくなってしまうのである。205-206p”

◆公家の世間離れの根っこです。六朝→百済→飛鳥へ、でした。
20 六朝の余風、より
”六朝の世(212~606)というのは、中国の長い歴史のなかでも、めずかしい時代だった。
かれらは北狄(ほくてき)という敵しがたい異民族どものやって来ない長江流域の稲作地帯にのがれ、故地を回復することを思わなかった。従って、武を語らず、政治を野暮とし、四世紀ものながいあいだ、六つの小型王朝を興亡させ、そこで密室のような、あるいは壺中の天のような文化をうんだ。それが六朝の世である。229p”

”百済は、・・・ごくろうにも海路をとった。はるかな長江下流まで航海して、その六朝文化を吸収しつづけたのである。
百済の聖王は・・・・。541年のことで、おもしろいことに、右から左にわたすように(欣明天皇13年/552年)、この王は日本に仏教や経論を送ってきている。234p”

”つまり六朝文化が、百済を通じて日本に洩れつづけたといっていい。当時の日本は、長江の中下流にある六朝のことを、「呉」とよんでいた。六朝の中国語―健康(南京)のことばーを、”呉音/ゴオン”とよび、漢籍も仏典もすべて呉音で音じた。
・・・遣隋・遣唐使・・・あらたに導入した長安音は”漢音”とよばれ、いまなお呉漢両様が併記されている。
呉音という六朝の音は日本語のなかに豊富にのこっているが、数詞が呉音であることは暗示的である。
つまり。イチ・ニ・サンと呉音でよんで、漢音であるイツ・ジ・サンとはいわないのである。暦もそうである。正月元旦は漢音ならセイゲツ・ゲンジツだが、呉音でなければ日本語にならない。234-235p”
”・・・要するに、公家はたっぷりと六朝ふうだった。236p”

◆仏教のわかりやすい解説です。
21 日本と仏教、より
”来の仏教というのは、じつにすっきりしている。人が死ねば空に帰する。・・・237p”
”ところで、本来の仏教には神仏による救済の思想さえない。解脱こそ究極の理想なのだ。
解脱とは煩悩の束縛から解き放たれて自主的自由をえることである。238p”

”鎌倉仏教はその後の日本人の思想や文化に重大な影響を与えるのだが、その代表格はなんといっても親鸞における浄土真宗と、禅宗に違いない。禅宗はともすればあいまいになりがちだった仏教を、本来の解脱的性格にもどした点で、まことにかがやかしい。239p”

”きに解脱と救済は、原理においてたがいに別系統のものでああるかのようにのべたが、親鸞においては救済をのべつつ、解脱の原理からすこしも踏みはずさないという微妙な、きわめて仏教の本来的態度をとっている。
かれにあっては”小明”は絶対的に人間を救済してくださるとしながら、人間は”光明”の前で自己否定をしつくして透明化する方向を示している。この透明化こそ、釈迦のいう解脱である。241-242p”

”救済の宗教には、教義がいる。親鸞はその思想の純粋性を他に示すために著述をした。その著作や述作が、教義になり、また日常規範にもなった。キリスト教やイスラム教ほどではないにせよ、教義がある。242p”
”・・・くりかすが、仏教は本来解脱の方法であって、教義というものは存在しない。244p”

◆若者の大人への通過に自治的な集まりが古くからあった。それが深層で昭和前期の軍部若者の爆発につながったのかも、と。そうなんですかね。
23 若衆制、より
”以下、ひょっとすると日本社会がいまなお冥々裡に蔵しているかもしれない暗黙文化/サブカルチャーについてのべたい。
若衆制のことである。ふつう、若衆組、若者組、若連中などとよばれ、ときに若衆宿、あるいは単に、「やど」とよばれたりした。257p”
”この制は、明治以降大いにすたれた。・・・⇒1905文部省・内務省が主導 ”青年団”  261p”

”ふとおもうことだが、昭和前期、内閣というオトナ制に対して参謀本部が統帥権というミコシをかついで若衆化して一大暴挙を開始したのも、右の潜在文化と無縁でないかもしれない。
さらにはまた、その参謀本部に対し、関東軍参謀が若衆化し、暴走して満州事変をおこし、あるいはノモハン事件をおこすなど、東京のオトナ体制からの羈絆(きはん)を脱する行動をしばしばとったのも、右のような潜在文化を考慮すると、わかりやすくなる。267p”

◆苗字の由来も鎌倉武士に関係ありました。
24 苗字と姓、より
”「名田」
これこそ鎌倉幕府樹立という、日本史を一変させる革命を理解するための鍵言葉/キーワードといっていい。名田とは”占有者の名(元来地名である場合が多い)”を冠した田地 のことで、律令的な土地公有制のなかの私有地(ただしその私有権はあいまい)のことである。
坂東(関東八か国・関八州)の場合、名田は”墾田”であることが多かった。271p”
”武士はこのようにして発生し、成長した。かれらは律令制の鬼っ子たちは、自分たちの”一所”(名田)に”命を懸”けつつも、その所有権のあいまいさにたえずふるえていた。272p”

以上、とくに関心もった箇所です。

脇田 幸三

建築家 株式会社綜設計代表
岐阜市生れ 名古屋市在住
1989年11月綜設計設立
主に住宅・マンション・医院を設計
名古屋工業大学大学院修了
テーマ:“大きな人を育て、大きな人生を歩む”住まい
趣味:読書、朝のランニング