本の感想|この国のかたち 二

司馬遼太郎著 文芸文庫 1993.10.09
この巻は、日本文化についての話題があちこち飛びます。読みながら共感した箇所を中心に感想(◆)を書きます。

第二巻は、以下のように24の話から成ります。
25紋 26 天領と藩領 27婚姻雑話 28土佐の場合 29肥後の場合 30華厳 31ポンペの神社 32金 33カッテンディール 34江戸景色 3513世紀の文章語 36典型 37無題 38汚職 39職人 40聖 41会社的”公” 42一風景 43師承の国 44ザヴィエル城の息子 45GとF 46市場 47越と倭 48スギ・ヒノキ

◆どの家も家紋を持っていたとは、知らなかった。実家の家紋をチェックしなきゃいけない。
25 紋、より
”家紋は、単に紋といい、定紋・紋所などとも呼ばれる。日本のおもしろさは、家紋をもたない家はないということである。13p”
”日本における紋章は、11世紀ごろ、平安貴族のあいだで牛車や衣服に自分の好みの文様をつけることが流行したことからとされるが、そういう公家紋よりも武家紋のほうが後世に影響した。
武家紋は、戦いのときの旗に用いられ、幕に用いられ、袖印として用いられ、敵味方から、自分あるいは自軍を識別させるのに役立った。16p”

”・・・ヨーロッパの封建貴族が戦場で紋章を使い始めたのも、11世紀ごろからとされるから、ほぼ似たようなじだいといっていい。
ただ西洋では家紋は貴族だけのものだった。
日本も鎌倉期までは、公家と武家だけのものだったが、室町期になると、ひろく一般化した。17p”

”私は以前この書きもののなかで、室町期における「地侍」という存在がその後の日本社会を解くカギの一つであるとしたが、ともかくも室町期の守護・地頭からみれば、地侍など、農民身分にすぎなかった。17p”

”室町期でのあざやかな現象は、この地侍たちが本来農民でありながら家紋をもつようになったことである。・・・
江戸社会では、農民は原則として苗字を公称できなかったものの、しかしたいていの農民は先祖以来の苗字をもっていた。
苗字には、セットとして家紋が付属している。江戸期、苗字は公称できなくとも、家紋を用いることはさしつかえなかった。19p”

◆幕府直轄地=天領=400万石の税は、安かった。紀州や薩摩は、厳しかった。旅で意外に豊かな農村風景に出会うのは、天領だったためかも?
26 天領と藩領、より
”江戸時代、米の収穫の4割を公がとり、6割をその百姓のとりぶんにすることを、4公6民といった。幕府は天領における税率をこの程度の安さにおさえていた。24p”
” ・・・紀州の税率は8公2民にまでのぼった。
天領のゆたかなあとを訪ねるとすれば、奈良県のほかでは岡山県の倉敷がよく、また大分県の日田もいい。
いずれも農村の風がのんびりして、町方は往年の富の蓄積を感じさせる。26p”

”また武士人口の多さは、精神面でもいい影響をもたらした。
武士という形而上的な価値意識をもつ階層が、実利意識の強い農民層や商工人の層に対し、いい按配の影響を与えたのである。29p”

”明治期から大正期いっぱい、人材を出しつづけたのは旧諸藩の地だったことを思うと、どこか天領の民とのあいだに成分のちがいがあったのかもしれない。30p”

◆素粒子物理学の描くイメージは、華厳経の世界に近い。一即多、多即一とか、重々無尽の世界は、現代物理学を2000年も前に先取りしている感じです。その日本への導入が、奈良の大仏さんです。すごーい、です。また、華厳経と空海の真言密教と親鸞の浄土宗との関係説明は、うなづくしかありません。廬舎那仏→大日如来→阿弥陀如来。日本の仏教解釈です。
30 華厳、より
”この思想は、紀元1世紀ごろから4世紀ごろにかけてしだいにつくられて中国に入り、多少の中国哲学が加味されて一大全集になった。そういう事情はともかく、この経典に盛られた思想こそ、のちの日本的思考や思想の先祖の一つになったというのが、この稿の主題である。69p”

”華厳ふうにいえば、一が多であり多が一でありつつ、その”多”の中の”一”がそれぞれ無限に他とかかわりあい、動いているのである。しかも無限に相互に依存しあって(相入しあって)孤立していない。つまり私どもの住む宇宙も生物界も人間の世界では華厳でいう「重々無尽」しあって相互に関連し、変化し、一が他を包摂しあってできあがっているのである。70p”

”本来の仏教は解脱が目的であって、救済の思想はなかった。救済の宗教であるキリスト教では、いきなり神がわれわれを救ってくださる。しかし釈迦の仏教にあってはみずから悟って真理に合一させねばならない。仏が人間を救うなどは、めっそうもないことだった。
劇的なことに、大乗仏教が出るにおよんで、救済が入ったのである。ここで仏教は大きく変身するのだが、このことを奈良朝のひとびとに委曲をつくして教えたのが、華厳経であった。72p”

”ところが、華厳によると、廬舎那仏という真理(悟りのすがた)からみれば。仏や菩薩が廬舎那仏の悟りのあらわれであるだけでなく、迷いもまた廬舎那仏のさとりのあらわれであるとされる。人間どころか、草や石、あるいは餓鬼や地獄まで法(廬舎那仏)に包摂され、一つの存在がすべての存在をふくみ、また一現象が他の現象とかかわりつつ、無礙に円融してゆくというのである。
となると、一切の衆生は当然のありかたとして仏になってゆく、ということになる。奈良仏教は、華厳経を得ることによってはじめて陽光の世界に出たのである。72-73p”

”空海が展開した真言密教は、紀元5,6世紀ごろにインドで成立したもので、教主を釈迦でなく大日如来という非実存者としている点でいえば、仏教とはいいにくい。だが、、密教もまた空の思想をもち、解脱を目標にしている点からみると、濃密に仏教といえる。73-74p”

”釈迦は、なまみの歴史的な存在である。釈迦という”如来”にこだわるよりも、いっそ完壁な観念像をつくるほうがよいとしたところから、真言密教の絶対者である大日如来という密教の最高理想がうまれた。それ以前に、すでに観念の存在である廬舎那仏があった。
さらにその観念が密教化して大日如来になったといっていい。
華厳経は世界像を提示した。しかし多分に哲学的説明にとどまり、宗教に必要な行を説かなかったから、行を説く大日如来が出現したともいえる。・・・華厳が密教的に発展もしくは変質した一形態ととれなくはない。74p”

”さらにのちに、あたらしい絶対者としての阿弥陀如来が出現するのである。
この出現は4世紀ごろかと思われるが、場所はインドでなく、いわゆるシルクロードのどこかであったはずである。
最初は、大日如来も一化身として、救済のみをうけもつ機能(本願)にすぎなかったのが、しだいに独立しつつ日本に入った。
この阿弥陀如来が、鎌倉時代、親鸞によって絶対者にされることで、仏教は徹底的に日本化した。
阿弥陀如来は、廬舎那仏の思想的後身なのである。廬舎那仏と同様、人格神でなく法そのものの名であり、かつ光明の根源である。さらには宇宙の一切であってそのあたりに満ちみちているということにおいても、華厳経の世界説明や、その展開の論理とすこしもかわらない。75p”

◆神道と仏教の関係は、現在は棲み分けがあるようですが、実際には入り込んでいます。古神道は国家仏教に追いやられ隅っこに。神が仏になり神仏習合が続き、江戸に神道復権があり、維新で廃仏毀釈があり、国家神道と近代仏教が興る、という大ざっぱな流れでしょうか。
31 ポンペの神社、より
”神道の本質というのは、精霊崇拝/アニミズムだろうか。それとも憑霊呪術/シャマニズムなのか、あるいは、後世になって加わる現世利益てきな受福除災の儀式なのかなどと考えると、どうもまとまらない。81p”

”さらに同じ人が、カトリックの聖堂やイスラムのモスクに行った場合、しばしば賀茂社での社頭と同質の敬意を表す。理由は、他者が信じるものに敬意を表するといったふうに整理されたものではなく、それよりも斎/イツき祠られたゐ厳/イツくしいものに対して畏敬を感ずるという気分が強いのである。こういう感情もまた神道なのである。82p”
”山本(七平)さんの論旨は、そういう宗教混淆は決して日本人のマイナス点ではないという。むしろそういう日本人の寛容性が何にもとづいているかを知りたがっているヨーロッパの知識人が多いという。83p”

”神道という言葉は仏教が入ってきてから、この固有の精神習俗に対して名づけられたものだが、奈良朝のころは、隋・唐ふうの国家仏教に圧倒されて、ややさびれた。
そういう時期、神々を救うために考えられたのが、奈良朝末の本地垂迹説/ホンジスイジャクだった。
まことに絶妙というべき論理で、本地とは、普遍的存在のこと。つまり仏・菩薩ののことである。そういう普遍的存在が、衆生を済度するために日本の固有の神々に姿を変えている、という説である。
そういう論理によって仏教化した神々が、権現(権/カリに現す)とか明神とかよばれるようになった。たとえば伊勢神宮の神は大日如来が本地であり、熊野権現は阿弥陀如来が本地であるとされた。84p”

”そういうなかで、江戸末期に出た平田篤胤の神道体系は、きわだって思想的偉容がある。
古神道は、ほとんど宗教的戦慄といえるほどに死や罪などのけがれを甚だしくおそれた。一方において特定の山や場所、樹木などを聖なるものとして敬した。85p”

”いわば、敬することが(ときに、それのみが)古神道だったといってもよい。
神道という言葉の文献上の初では「日本書紀」の用明天皇(540~87)の紀に「天皇信仏法尊神道」とあるのがそうだとされている。右の文章の場合も、仏教にたいしては宗教用語の”信”が用いられ、神道については尊敬の尊が用いられているのが、印象的と言える。86p”

◆江戸時代が意外と長く続いた。持ちつ持たれつ? 安眠を貪っていた?
34 江戸景色、より
”ところが、幕府は270年もつづいた。ひとつには江戸初期に完成した幕藩体制という機構の巧妙さによるであろう。さらには、人心が変動や大乱を好まなかったということもあるにちがいない。
それ以上に、幕府の中核である勘定所の役人たちが、機構の運営をうまくやったということを評価してやる必要があるのではあるまいか。120p”

◆日本が古代に文字を持たなかったことは、とても残念です。遅ればせながらも、漢字を借用してから、カナを創作し、文章を深めていったのは良かったですね。
35 13世紀の文章語、より
”世界のどの地域でもまず詩が発達した。
文章のほうはずっと遅れた。奈良・平安朝を通じ、公文書の日本語は外国語(漢語)を借用してきたのである」その理由は、単に文書語が未熟だったことによる。122p”

”ここでいいたいのは、文章日本語にとって、13世紀は偉大だったということである。124p
13世紀・・・「我妻鏡」・・・「歎異抄」・・・「正法眼蔵」・・・「平家物語」・僧慈円「愚管抄」・・・華厳学者明恵/夢の記録文”

◆なるほど!
37 無題、より
”こどものころは、たれも時代と地域をマユのようにして育つ。147p”

”近代国家というものは法のしたにおかれる国家であることはいうまでもない。国土の一木一草も法によらざるはなく、国王・大統領といえども法の下にある。日本が近代国家になるのは、明治22年(1889年)に発布された帝国憲法以後であることは、いうまでもない。以後、歴史的日本から法人としての日本国になった。美濃部達吉そういう立憲国家を法人としてとらえたのだが、じつに正確といっていい。・・・154-155p”

◆汚職って政界につきものかと思ってました。明治は、意外とクリーンだった? 太政官政府役人の品行の悪さ、井上馨、山県有朋を除けば。
38 汚職、より
”明治国家は、十分成功した国家であるといえる。
その原因の一つとして、汚職がほとんどなかったことをあげていい。159p”

”ただ、その「成功」のためには、すさまじい代償を払いもした。代償とは、数万の兵士たちの死と、莫大な戦費、あるいは戦火によるひとびとの被害のことである。
私は、明治10年の西南戦争のことをさしている。その起因は、ふつう失業士族の憤懣とか、あるいは表面的に征韓論うんぬんとかということになっているが、あれほどはげしい爆発をみせたのは、むろんそれだけではない。
責任は、薩摩人自身がそれをつくり、かれら自身がそれを捨てて大挙故郷に帰った新政府にあった。新政府の官吏たちの「品行」のわるさが、不満の爆発の決定的なものだった。
「其原因は政府の方にあり」
と断定したのは『丁丑公論』の筆者福沢諭吉であった。西郷に責任はなかった、と福沢はいう。160-160p”

”まず第一は、長州人井上馨によるものだった。165p”
”おなじく長州人山県有朋が関与した疑獄は”山城屋和助事件”というものだった。167p”

◆職人は、名人となれば作品の評価は高い。けれど、下積みがながく、稼ぎ悪く、身一つでやり通さなきゃいけない。調べ・音色のいいことばです。
39 職人、より
”職人。じつにひびきがいい。そういう語感は、じつは日本文化そのものに根ざしているように思われるのである。
日本は、世界でもめずらしいほど職人を尊ぶ文化を保ちつづけてきたが、そういうあたり、近隣の歴史的中国や歴史的韓国が必要以上にいやしめてきたことにくらべ、”重職主義”の文化だったとさえいいたくなる。171p”

”鎌倉・室町の武士たちは、兵であるとともに農を兼ねていた。身を労するという日常のくらしのなかで、同じく身を労する職人に愛と敬意を感じてきたにちがいない。
いっぽ、京の公家は身を労さないのだが、かれらのあいだにも、職人の仕事への敬愛の気分がきょうゆうされていたようで、・・・173p”

”室町末期から桃山期にかけた、茶道が隆盛をきわめた。とくに利休が出るにおよんで、茶の美学だけでなく、茶道具についての”好み”が頂点に達した。かれらは絵画など純粋美術を好むだけでなく、無名の職人がつくった道具という工芸に、めのさめるような美を見出したのである(→柳宗悦の民芸運動)。175p”

”以上のようなぐあいだったが、かといって職人一般の地位が他の国の社会にくらべとくに高かったわけではない。ただ名人上手になれば、尊崇をえたということなのである。178-179p”

”「そういう”評判”こそ職人の生き甲斐で、またそれを職人好きの世間がささえていたのである。落語の主人公をもふくめた多くの職人たちは、そういう無償の名誉を生活の目標にして生きた。
「職人を尊ぶ国」と、日本痛のフランク・ギブニー氏がいったが、日本社会の原型的な特徴といっていい。180-181p”

◆師につくことは大事。師は、場と時を違えて、幾人あってもいい。ダ・ヴィンチのように自然を師としてもよい。いつか独創性が生まれれば、なおさらいい。
43 師承の国、より
”・・・日本における最初の「思想」は、9世紀初頭、空海774~835年が展開した真言密教よいえる。217p”
”・・・ともかくすべてが即身成仏 というただの一点の目的にむかって集中されているのである。271-218p”

”自然、最澄は空海と違い、弟子たちから神格化されず、されようとも思っていなかった。220p”
” →法然、親鸞・・・日蓮・・・・・栄西、道元
このように、叡山における思想上の生産性のゆたかさは、最澄が叡山をドグマの腑にせず、同時代のヨーロッパの大学ほどの開放性をのこしたからといえる。221p”

”・・・禅をのぞき、それぞれの宗祖たちは、最澄をまねずに空海をまねた。このため、思想はふたたび生産性をうしなった。・・・日本仏教はその後、ひらすら澱みつづけた。
その原因のひとつに師承という悪しき伝統がある。
師承とは、鎌倉から江戸期にかけて、ふつうにつかわれていたことばで、”我流”の対語ともいえる。
・・・さらにこの悪習は、師の説くことから一歩も離れてはならないという閉鎖性を重くする作用もした。221-222p”

”武道のような体技もふくめて、この師承の国で、師承を基礎にしつつも伝統に新しい大展開を見せたー明治までのー例は、私が理解する範囲で、千葉(周作)、清沢、嘉納(治五郎)の三人だけだったように思える。226p”

◆古代史は、ロマンがあってわくわくします。霧が晴れて鮮やかな風景が浮かび上がるときが、これからも増えていくでしょう。
47 越と倭、より
”王国としての越はながくはつづかなかった。その栄の多くは、紀元前496年に出た有名な越王勾践の英雄的事業に拠っていて、その死後ふるわず、紀元前334年に楚に滅ぼされた。
越の滅亡後、その遺民たちが対馬海流に乗って九州に渡来し、水田による稲作をもたらしたのではないか。という想像が以前から存在する。265p”
”なにしろ越の滅亡と、九州への稲作の渡来とが、年代としてよく符号するのである。
むろん、越人だけが日本人の祖先ということではない。稲作の開幕時代である弥生時代のまえには、数千年あるいは1万年つづいたといわれる縄文時代がある。
「縄文時代のひとびとは、いまの日本の版図ことごとくに遺跡をのこしています」と、江上波夫氏が、新鮮な表現でいわれたことがある。265-266p”

”3世紀の成立である「魏志倭人伝」は、和人の外見について、「男子は大小となくみな鯨面文身(いれずみ)」をしていると言っている。268p”

◆ケヤキ・クスの古建築もありますが、やはり主材種はヒノキ・スギです。通直性ときめ細やかさは、建材としてダントツにいいものです。
48 スギ・ヒノキ、より
”奈良の法隆寺がヒノキによってつくられたように、飛鳥・奈良朝の巨大建築の主材は、ヒノキであった。272p”

”――スギは板になる。といのが、古代ではなんともありがたいものだった。・・・
登呂の村がまだ生きていたころ、すでに手斧は存在していた。材を斧で割ったあと手斧で削ってひらたくしてゆくのだが、しかし手斧をつかうだけで、材が容易に板になるものではなく、軽やかでやわやかくて割りやすいスギであればこそ、3世紀においてすでに板づくりが可能だった。273p”

”いまの世では、スギ・ヒノキも禁固同然の気の毒な境涯にある。
数寄屋や書院普請の需要がすくなく、また値の点で輸入材に押され、いたずらに造林の山で老いている。
スギ・ヒノキという日本文化への貢献者も、いまの世では、かろうじて日本酒をつくるときにスギ桶やスギ樽が必要とされるぐらいだろうか。その芳香が、日本酒独特のコクをつくることに役立っている。279-280p”

脇田 幸三

建築家 株式会社綜設計代表
岐阜市生れ 名古屋市在住
1989年11月綜設計設立
主に住宅・マンション・医院を設計
名古屋工業大学大学院修了
テーマ:“大きな人を育て、大きな人生を歩む”住まい
趣味:読書、朝のランニング