本の感想|この国のかたち 三

司馬遼太郎著 文芸文庫 1995.05.10
時代の要となる動きの整理に感心します。読みながら共感した箇所を中心に感想(◆)を書きます。引用が多いです。

第三巻は、以下のように24の話から成ります。
49戦国の心 50ドイツへの傾斜 51社 52室町の世 53七福神 54船 55秀吉
56岬と山 57華 58家康以前 59洋服 60「巴里の廃約」 61「脱亜論」 62文明の配電盤 63平城京 64平安遷都 65東京遷都 66鎌倉 67大阪 68宋学 69小説の言葉 70甲冑(上) 71甲冑(下) 72聖たち

◆維新から敗戦まで、輸入ものにドイツが多かった。世界の勢いは、ダントツに英だったのに不思議でした。後進国への共感だったなんて、巡りあわせが悪すぎた。一方、英式の鉄道の狭軌、車の右側通行などは、迷惑品になってしまった。
50 ドイツへの傾斜、より
”・・・相良知安(佐賀藩)と岩佐純(越前福井藩)という二人の蘭学者だった。
かれらは役人として現在の東京大学医学部の建設にあたっていたのだが、オランダ医学書の多くがドイツ医学書からの翻訳であることを知り、「だから、ドイツ医学にてんかんすべき」と主張した。22-23p”

”英語圏については、旧制中学校の語学を英語にしたことと、海軍を英国式にしたぐらいのものであったろう。25p”

”「幕府陸軍はフランス式だったのではないか。なぜそれを明治政府はドイツ式をえらんだのか」という問いについては、ごく単純にいえば、日本が明治維新をおこして4年目1871年に、プロセン軍がフランス軍を破ったことが大きい。
在欧中の日本の武官は、目の前で鼎の軽重をみてしまった。
かれらはドイツ参謀部の作戦能力の卓越性と、部隊の運動の的確さを見、仏独の対比もした。その上、プロイセンはこの勝利を基礎にして、連邦を解消してドイツ帝国をつくった。ほんの数年前、明治維新をおこした日本人にとって、強い感情移入を持ったことはいうまでもない。26p”

”憲法についても、そうだった。
・・・結局はドイツの後進性への親近感が勝った。
フランス憲法にゆいては”過激”すぎるという印象だったし、英国については、わずかに大隈重信がかの国を参考にせよといったぐらいだった。
ドイツについては、ひいきというよりも、安堵感だったろう。ヨーロッパにもあんな田舎くさいー市民精神の未成熟なー国があったのか、とおどろき、いわばわが身にひきよせて共感した。
明治22年の憲法発布のときには、陸軍はまったくドイツ式になってしまった。
法学や哲学、あるいは音楽も同様だった。
やがて昭和期に入って、陸軍の高級軍人の物の考え方が、明治の軍人にくらべ、はるかにドイツ色が濃くなった。26-27p”

”明治の軍人には思考法に経験主義がたっぷり入っていたし、自国を客観視する能力も、また比較するやり方も身についていた。要するに、かれらはすぐれた江戸時代人だった。
これにひきかえ、昭和の高級軍人は、あたかもドイツ人に化ったかのような自己(自国)中心で、独楽のように論理だけが旋回し、まわりに目をむけるということをしなかった。陸軍の正規将校の第一次培養機関は陸軍幼年学校だったが、ここでは、明治以降昭和のある時期まで英語は教えられず、ドイツ語が中心(他にフランス語、ロシア語)だった。
陸軍が統帥権を根拠として日本国を壟断しはじめるのは昭和10年前後だが、外政面でまずやったのは、外務省や海軍の反対を押し切って、ヒトラー。ドイツと手を組むことだった。 27-28p”

”「昭和軍事秘話」下 陸士37期の中原繁敏氏(元大佐)の話:
「当時、陸大を出てドイツに留学していない人は、有力部員、有力課員になっていないのです。だから日独伊同盟を作ったり、大事な時には、総長、次官、大臣、皆ドイツ留学組なんです。」さらに、昭和20年に日本が敗れるまでの12年間の陸軍省と参謀本部のポストについた人の留学先を調べると、ドイツが一番多かったといわれる。
最後に、ドイツを買い被っている人は多かったが、ドイツをよく知っているという人はいなかったというのである。こういう面からみても、日本の近代化時代のドイツ偏重や、陸軍にけるドイツ傾斜というのは、一種の国家病のひとつだったとしかおもえない。30-31p”

◆社=シャ・やしろという背景は、深いようです。神聖な場で、思わず頭を下げる感じの、古神道的な雰囲気です。日本では祈り・祭りの場が、時代とともに装置可されました。伊勢院宮の捉え方がおもしろいです。
51 社、より
”『周礼シュウライ』という本の成立は、じつに古い。その成立年代に疑問があるとされているにせよ、伝統的には、紀元前12世紀に存在したという。
それによると、周の集落の最小単位が里リであたった。里は25戸とされた。その里ごとに、慣習として、「社」という空間があった。
ごくちっぽけな空地で、建物はなかった。
ついでながら、示偏は、礼、祈、祝、禁などの文字に見られるように、偏そのものが神聖をあらわしており、当然ながら社という文字は神聖な場所をあらわしている。
年ごとに里のひとびとは社にあつまって、土地の神を祭り、五穀豊穣を祈った。32-33p”

”周代の社はたんなる空地だったといったが、日本の古神道も、もとは、そうだった。社殿ができはじめたのは奈良朝ぐらいからである。
周の社は、古神道が多分にそうであるように、宗教というより、「礼」に属する概念あるいは存在だった。ときに木が植えられ、石がおかれた。34p”

王侯や諸侯の社もまたごく小さな空間だったらしく、殿舎のようなものはなかった。王も侯も、自分の社によって豊穣を祈った。その場合、土地の神の在イマす社に、五穀の神もまねき、あわせて祭ったのである。この場合の穀神のことを、とくに「稷ショク」とよんだ。
社と稷をあわせると、社稷になる。のち、転じて国家のことを気どって言う場合、社稷といった。35-35p”

”この場合、日本の伊勢神宮がおもいあわされる。・・・
はじめは、八咫鏡で象徴される祖神(天照大神)だけがまつられていた。いわば宗廟(内宮)のみだったが、いつのほどか、外宮があわせまつられ、ニ所で一つになった。外宮の祭神は、穀物の神とされる豊受大神である。
内宮が社で、外宮が稷ではないか、と私はかねがねおもっていたが、・・・  35-36p”
”まず中国の古代王朝の社稷の敷地が小規模であるのとはちがい、境域がとほうのなく広い6333ha。それに、古語でいう御舎ミアラカ(社殿)があることで、建物は古くから存在したらしい。この社殿が、20年ごとに建てかえられることは(式年遷宮)はよく知られている。
遷宮のはじまりが7世紀末(持統4年・690年)であることはまぎれもない。
7世紀といえば、明治期とどうよう”新文明”の時代であった。唐制が導入され、法制的な国家ができた。当時「周礼」も入ったはずで、さらには「社稷」という概念も知ったであろう。
これは大変だ、と思い、社稷という輸入概念から伊勢神宮を思いだし、あの神宮こそ社稷ではないか、と気づいたのにちがいない。
中国文明は、礼(秩序)の文明である。礼として伊勢神宮を再認識し、礼を厚くするために式年遷宮という新機軸が、官制として定められたのではないか。36-37p”

◆室町時代って、とりとめもなくぼっとした感じで受け止めていたのですが、間違いのようです。特に日本の文化的な原点があるようです。強権がなく、豊かな農業生産性があり、農民・町民の自発性が大きかったようです。
52 室町の世、より
”私どもは、室町の子といえる。
いま、”日本建築”とよんでいるのも、要するに室町末期におこった書院作から出ている。床の間を置き、掛軸などをかけ、明り障子で外光をとり入れ、襖で各室をくぎる。襖には山水や琴棋書画の図をかく。・・・
こんにちでいう華道や茶道というすばらしい文化も、この時代を源流としている。
能狂言、謡曲もこの時代に興り、さらにいえば日本風の行儀作法や婚礼の作法も、この時代からおこった。私どもの作法は室町幕府がさだめた武家礼式が原点になっているのである。 42-43p”

”室町幕府にはそういう護民意識が乏しかったかわり、かえって農民は自立意識をもち、みずから工夫して生産性をあげようとした。
そういうことの総和が、室町時代だった。乱世でありながら史上最高の農業生産高をあげ、余暇の文化をつくった。44-45p”

”要するに、日本史は室町時代から、ゼニの世がはじまった。45p”
”ともかくも、産銅国であったことが、万事幸いした。47p”

”対朝鮮貿易では、日本側は朝鮮の綿布をよろこんだ。・・・対明貿易でも、輸入品は、学問・芸術にかんするものが圧倒的に多く、さかんに書物や絵画を輸入した。47p”
”それらも多様な舶来文化が、室町という時代のるつぼのなかで溶けたり、触媒になったりして、室町文化ができあがったゆくのである。48p”

”さらに共通語の成立がすすんだ。
ついで、古典文学が、前代未聞に普及した。・・・地方では連化歌がはやった。・・・
一期(一会)という言葉も、流行った。・・・
禅が流行り、念仏がいよいよ大衆化し、ひとびとは前生からきて後生へ去ってゆく今生の一瞬をより充実しようとしていたのである。
総合して、室町の世は後世への大きな光体であった。49-50p”

◆海に囲まれた日本が船を禁止され外国と没交渉となると、何事も内向きになってしまう。文化は熟する部分があっても、刺激なく発展力が削がれてしまう。バカな家康の後継者たちだった。
54 船、より
”そういう南蛮船の構造上の影響を、日本の豊臣・徳川初期の航洋船は、すこしはうけた。
豊臣期から徳川初期まで活躍する”朱印船”がそうである。
朱印船とは、国家の貿易許可を持って海外に出かけてゆく船のことで、家光の海外渡航禁止(1635年)まで31年つづいた。
つかのまながら、日本海事史上の栄光の時代だったといっていい。62p”
”朱印船は、それまでの日本史に出現したどの船よりも堅牢だった。中国船や南蛮船の構造をとり入れ、多帆で、堂々としていた。残っている末次船や荒木船の絵をみると、どうやら甲板らしいものがあったようだ。63p”

”一面に於いて、江戸幕府はじつに小心だった。
『徳川実記』慶長14年1609年九月のくだりによると、・・・500石積み以上のものを淡路島にあつめ、ことごとく没収した。
同時に大名は500石積み以上の船は持つべからず、とした。
この大船禁止の幕法は、幕末、ペリー来航1853年の直後、この制約が解かれるまで、じつに244年もつづくのである。63-64p”
”江戸時代の繁栄は、無数の船乗りの死骸の上に成立していたのである。68p”

◆海のない県に生まれ育ってせいか、海や岬の様子には疎い。出雲日御碕に寄ったとき、神聖を感じることができなかった。狩猟採集の縄文時代から稲作の弥生時代へ、山の風景は確実に変化していったでしょうね。松の山は、稲作の普及だった。
56 岬と山、より
”・・・それでも、日本海をゆく船長さんから、出雲の日御碕を通過するとは黙禱するするという話をきいたことがる。
出雲日御碕には、日御碕神社が鎮まっている。82-83p”

”10数年前、森林生態学の京大農学部の四手井綱英教授が、赤松の山といった日本的景観は、弥生式農耕がもたらした、という旨のことを書いておられた。88p”
”それにひきかえ、照葉樹の山は暗い。遠くからみても雲が湧くようにように茂り、樹の下は木ノ下闇になっていて、地面は腐葉土のためにじめじめしている。つまりは、縄文のころの日本の景観は暗い照葉樹でおおわれていた。
弥生式農耕がつたわってから、景観がかわった。農民たちが山に入って下草や落葉をとるうちに山肌がかわき、樹の栄養も枯れて赤松の適地になったという。そういえば倭絵の景色に赤松は欠かせない。
赤松山のカムナビヤマ(神体山)がコメ作りの神であるとともに、その景観はコメ農民がつくったともいえる。89p”

◆中国史は、王朝の興亡の繰り返しで、近代へと向かわなかった。不思議だったけど、背景に儒教があった。縛りは、実に強かったのですね。いまでも因習的に残ってる?
57 華、より
”「華」 とは文明という字義で、意味が重い。
・・・
”華”は、二千年来、中国を縛ってきた。このため、中国の場合、儒教国教化以前の戦国時代のほうが”近代”のかがやきがない、18、9世紀の清朝のほうが”古代”になっているような印象で、進歩と退化が、逆三角形になっている。101p”

◆信長の延暦寺の焼き討ち・石山本願寺との戦いは、信長らしい避けて通れなかった道。今日の日本の宗教が、政治・社会の争いの外にある状況をつくった。まぁ、良かったのですね。
58 家康以前、より
”信長の生涯でもっとも困難な長期戦になったが、かれは戦うべき意義を知っていた。本願寺とたったかうことは、影響化にあるか各地の国人。地侍をたたきつぶすことーつまり中世をつぶすこと―にあったのである。”

◆東大の設立は明治1877年ですが、維新から実態として動き始めたということでしょう。今でも、偏差値競争のトップに立ちます。先端知識・技術の配電盤からは、やや地位を落としていますが。特に創造性については、分散傾向です。
62 文明の配電盤、より
”まことに明治初年、西欧文明受容期の日本は一個の内燃機関だった。
その配電盤にあたるものが、東京帝国大学で、意識してそのようにつくられた。いまでもこの大学に権威の残像がのこっているのは、そのせいである。
明治30年1897年、京都帝大が設立されるまでの30年間、日本には右の”配電盤”は一つしかなかったが、じつによく作動した。146147p”

”明治末年、配電盤が京都にもおかれ、ついで東北と九州におかれた。
この時期になると、受容よりも独創が重んじられるようになった。京都大学の初代文科大学長の狩野亨吉が教授陣を独創家でもってうずめ、また東北大学創設に影響力の強かった前記の長岡半太郎が、徹頭徹尾創造を重んじたのも、その事情による。137p”

◆平城京の街は、形ばかりだった。よく造ったものです。国の背骨も借り物の律令で間に合わせ。でも、国家の体をなした。戦いもなく、豪族は平服したようでです。不思議です。
63 平城京、より
”平城京には、そんな(交際都市長安)にぎわいはなかった。
姿こそ世界帝国の首都に似せたとはいえ、右のような経済的背景はなく、国民経済も貧弱で、一歩郊外に出れば、地面に竪穴を掘って大きなわら屋根をかぶせた住居が点在していた。”
”重要なのは、この時期、唐風の律令の世がはじまっていたことである。律とは刑法のことであり、令とは、行政法のことである。
この前世紀までは、日本の実情は統一国家というより、津々浦々の諸豪族の群立状態だった。
豆腐をかためるために、ニガリが要る。
そのニガリの托割を、律令制が果たした。
日本全国に律令という大網を打ち、農地という農地、人間という人間を律令国家がまとめて所有し、統一国家が成立したのである。161p”

”まことにふしぎなほど、この間、軍事力が用いられたことなく、地方々々はその権利を放棄した。
こういうふしぎな例は、はるか千数百年くだって明治4年1971年の廃藩置県にもみられる。両方とも”いまからはじまる世が、世界の普遍的な文明なのだ”という国民的気分があって、みなやむなく従ったものかとおもえる。島国だけに、普遍性へのあこがれがつよいのである。162p”

”ついでながら、律令国家は、奈良時代70余年が最盛期であった。
平安時代になってくずれはじめ、やがて東国を中心に武士という反律令的農場主が勃興し、ついには12世紀末、鎌倉幕府というきわめて日本的な政権が誕生する。これによって律令の世は事実上ほろぶのである。日本史が、中国や朝鮮と体制を異にはじめたのは、鎌倉の世からであり、そのことは、以前にものべた。163p”

”ここでふとおもうのだが、律令制というのは沈黙の社会主義だったといっていい。
・・・
なにしろ日本の7世紀末から8世紀の社会には多様性がなく、一望、農民や採集生活者だけだったのである。164p”
”それに日本語が未成熟であった。いわば生活言語で、抽象的なーたとえば、国家や社会についてのーことを論ずることはできなかった。
まことに『論語』に出てくる「之に由ラシムベシ、之に知ラシムベカラズ」の民であったため、ひとびとは季節をうけいれるようにしてうけいれざるをえなかったのだろう。165p”

◆仏教・寺は、日本国創建時には大き過ぎる存在だった。奈良では僧や大寺一大勢力だった。それらを避けての平安京と。京都は寺の街という印象が強いが、創建は新しく、「門跡」=層の住居が多いという。古寺の僧と公家の末裔が跋扈しているイメージは変わりないけど。
64 平安遷都、より
”私は最大の原因は、仏教だと思っている。
僧侶が権力の場に横行し、政治どころではなくなったのである。道鏡(~772)の例をおもえばいい。女帝にとり入り、皇位につこうとさえしたのである。168p”

”首都が奈良にうつされて草々、遠近から大寺が新都市にぞくぞくひっこししていたのである。
大寺の首都集中というべきもので、異常というよりほかなかった。
ほとんどが、国立の寺院(官寺)なのである。
僧は、官僧である。国家公務員である点、官吏とかわらない。というより、官吏以上に国家と人の心をともに支配していた。このあたり、後世のイメージでは奈良時代の官僧はとらえにくい。
・・・一党独裁の共産党と国家の関係にているとおもえばわかりやすい。169p”

”しかし、あらたに山背(山城)の地に平安京が営まれたとき、新首都では大寺の造営が禁止された。
さらに平安京を通じ、禁止されつづけたのである。・・・170-171p”

”こんにち、京都で古刹といわれるものの多くは、はるかにくだった豊臣期やあるいは江戸時代におこされたあたらしいものなのである。
たとえば、浄土真宗の総本山の西本願寺・東本願寺は豊臣期から江戸期にかけて京にうつされたものだし、浄土宗の総本山の知恩院は、徳川家の宗旨寺として江戸初期、東山のふもとに大伽藍が興されたものである。
それに、それらのほとんどは”鎮護国家”というような国家原理にかかわるものでなく、個人の安心立命が中心で、要するに信仰中心の鎌倉仏教なのである。”

”-しかし京には平安時代からの門跡寺院がおおいではないか。
という異論があるかもしれないが、門跡寺院は、寺というより本質的には僧の住居である。げんに里房とよばれた。173p”
”「門跡」というふしぎな寺院は平安末期に多くつくられた。私有財産である荘園が基礎になっていて、この面からも平安時代の特質がうかがえる。・・・174p”
”平安時代も古びてくると、天台座主などは皇族や貴族の子弟が独占するポストになり、退陰するとかれらは里に住んだ。それが門崎であった。
建て方も青蓮院や大覚寺についてわかるように、寺院形式ではなく、公家の別荘に似ていた。  174p”

”平安京にあっては、都市形成からして長安の模倣の域を脱していた。
たとえば、平安京の南のはしの羅生門をはさんで、東に東寺、西に西寺がおかれるべき設計されたが、これも脱長安だったといえる。
この場合の”寺”はテラではなく、どの漢字辞書にもあるように、本来の意味である”役所”と解するほうがいい。つまり東寺・西寺という名の国賓用の官立ホテル(鴻臚寺・鴻臚館)を二棟置くつもりであった。”
”ともかくも、京には官寺は置かれなかった。・・・清水寺/坂上田村麻呂の私寺・・・高野山寺(神護寺)/和気氏の私寺176p”

◆鎌倉武士の潔さは、ホンモノのようです。日本人の倫理感、信というバックボーンがあるです。あいつが言えば無条件に動く、という友人がいるか、自身がなくなってきました。
66 鎌倉、より
”「いざ鎌倉」
などといわれた。このことばは謡曲「鉢木」のなかにも出てきて、きくたびにすうやかな倫理的感情をおこさせられる。
治承4年1180年、源頼朝がここに幕府を置いてからその滅亡1333年までの約350年間、鎌倉から非常命令が発せられるや、山野に住む武士たちが鎌倉をめざして駆けた。理非もと得失も念頭にないもののように、かれらはためらいもなく馳せ参じた。
かれらは潔さを愛し、そのことにおのれの一身を賭けた。つねに名を汚すまいとし、”名こそ惜しけれ”ということばをもって倫理的気分の基本においた。187-188p”

”薩摩島津氏の祖については諸説あるが、伝承としては頼朝の時代に鎌倉に下向したという。
島津家は、とくに鎌倉の風を募った。とくに戦国から江戸期にかけ、意識して家士を教育し、  鎌倉風を仕立てた。192p”

”鎌倉幕府にあっては、やがて頼朝の世系が絶え、権力は北条執権家にうつった。しかし前掲の「鉢木」でもみられるように、坂東の士風はおとろえなかった。「鉢木」は室町時代の世阿弥の作といわれるものだが、ありうべきはなしとして書かれたのである。192p”

”鎌倉は、武士の府らしくまことに質素な首都だった。
巨大建築物といえば、鶴岡八幡宮があるくらいで、わずかな谷地に、御家人屋敷と庶民の家が混在し、北条屋敷も防御力のある建物ではなかった。193p”

”・・・六波羅探題・・・南北・・・脱出・・・近江番場の蓮華寺で423人自害。
かれらの鎌倉ぶりの心は、信でもってささえられていた。信というのは、のち室町や江戸の世で商業が栄えると、商人の倫理になった。カネを借りれば必ず返すという倫理である。195p”
”坂東武者が日本人の形成にはたした役割は大きい。”

◆まとも、という言葉が船用語とは。”思想的創造力の衰弱と経済の沸騰の鈍化は、一つのものであるらしい”と。確かに複数の天才たちの登場時期は、社会の沸騰が必要かも。
67 大阪、より
”船の船尾を艫トモという。船の船尾トモにむかってまっすぐに背後から吹いてくれる風のことを”真艫”というのである。転じて、正直であること、まっとうであることの意になった。大阪の機能が、日本じゅうを商品経済の海にした。200p”

”当然ながら、大阪町人のあいだでは、学問を出世の道具にしたり、学会の大むこうをねらうという風が、まったくなかった。学問のための学問というのが18世紀の大阪学問の風であった。
203p”

”大阪のおもしろさは、仲基のような人文主義者を生みつつも、18世紀の1世紀たらずで衰弱したことである。思想的創造力の衰弱と経済の沸騰の鈍化は、一つのものであるらしい。206p”

◆朱子学は、まったく困った空論です。中国・韓国・日本のダークな流れの本流ですね。
68 宋学、より
”君山(狩野直喜)の昭和のイメージをあえて我流に解説すると、まず朱子学(宋学)は空論だという。また、日本人の空論好きは宋学からきているという。
その空論好きは明治人にはあまり見られず、昭和初期ごろから濃厚になった。
昭和軍閥が、脾弱な国力を激情的な空論でごまかし、空論で他を論じ、空論で自己を肥大させたのは異常とした言いようがないが、江戸期以来の朱子学的思考法の本卦がえりといわれれば、そうとも思える。狩野君山は、そのことを言いたかたのである。208-209p”

”理非を超えた宗教的な性格がつよく、いわば大義名分教というべきもので、また王統が正統か非正統かをやかましく言い、さらに異民族をのろった。210p”

宋学は、危機意識のなかでおこった。このため過度に尊王を説き、大義名分論という色めがねで歴史を観、また異民族を攘ウチハウという情熱に高い価値を置いた。要するに学問というより、正義体系イデオロゴーであった。211p”

◆一所懸命の武士の登場説明です。縄文人の末裔かと思ってましたが、開墾し田畑に我が城をつくってきた農民の武装化でした。一所懸命は、甲冑の色にまで及びました。
70 甲冑(上)、より
”表むきの律令制はつづいていた。だから墾田には、京の貴族や社寺の名義がいる。
その地を”開発”した豪族が、貴族・社寺に墾田を寄進することで、”特例の私有”を合法化し、自分はかげにまわって経済圏だけをにぎった。武士のはっせいである。
開発地主(武士)たちは、その田園を守るべく武装した。また京の貴族たちの機嫌をとりむすぶべく京にのぼって、無報酬で公家たちの雑用をつとめた。すべて自分の”私有領土”を守るための屈従だった。
このように、初期の武士は命懸け”私”から出発していた。
くどくいうと、発生当時の武士は、私的なもの(領土と名誉)を守る存在であったといえる。いっしょに命を懸ける(一所懸命)という当時のことばが、いまなお日本語のなかに生き残っていることをおもうと、平安時代の”私的領土”(武士)の”私”への感情がどんなものであったかがわかる。231p”

”こういう事情が、甲冑にじかに反映した。
平安時代の兜や鎧は、それまで(公地公民時代)のものとはまったく形態。色彩を異にし、かつ個々にも異をきそうようになった。単なる防御用の目的を超えて華麗であったのは、懸命な”私”の表現だったからである。231p”
”かれらは戦場でいちいち名乗りをあげるようになったのだが、それは自分は他とちがうということでの叫びであった。
なにがちがうかといえば潔さがちがっていた。231-232p”

◆幼いときに読んだ絵本に出てくる武士が派手な甲冑・衣服で、本当かな、と思いました。私⇔潔さ⇔優美、とは驚きました。
71 甲冑(下)、より
”そのような武士の”私”のきわどさから、平安時代の特異な甲冑(鎧・兜)が出現する。
過度に装飾されたのも”私”の主張であった。
所有権という”私”の主張と表裏をなすものが潔さの協調で、その潔さという倫理性が、もう一枚裏打ちされて優実という造形意識になったのである。それが、平安時代の甲冑であった。  239p”

◆日本仏教は釈迦の教えからほど遠い。それでも、釈迦にいちばん近かった、という。一心に祈れば、確かに「無」の境地になり、一時的な心の安らぎが得られる。そういうこと?
72 聖たち、より
”仏教にあっては、一切は空である。あわせて、万物は轟々と輪廻する。従って、初期仏教には天国も地獄もなかった。悟りをひらく以外に、光明はなかったのである。
釈迦の没後、週百年経って、様子がかわった。インド文明圏の一角で成立したらしい『阿弥陀経』が、キリスト教が天国を説くようにして、極楽の存在を説き始めたのである。本来の釈迦の仏教とは別の観があるといっていい。249p”

”浄土はいくつもある。・・・
なにしろ阿弥陀如来は、如来自身の固有の願い(本願)によって、「ひとびとが私(阿弥陀如来)のを10遍でもとなえるなら、西方十万憶仏土に往かせ。そこで、生まれさせよう(往生)」というものなのである。このため圧倒的な魅力をもった。”

”インドにおける阿弥陀如来の成立にはイラン思想が入っているといわれている。
ひょっとすると、初期のキリスト教の破片も入っていたかもしれない。
ただキリスト教と決定的にちがうのは、ゴッドが厳格な父性であるのに対し、阿弥陀は人間の弱さに対して寛容な母性であることである。250p”
”・・・『阿弥陀経』にあっては、弥陀の御名をとなえる(南無阿弥陀仏を唱名すること。念仏)だけで、罪ある者も、浄土へいける。ついでながら、念仏は呪文ではなく、単に感謝のあいさつである。251p”

”以上、法然、親鸞、一遍をみていると、非仏教のようにみえて、釈迦の仏教にもっとも近かったことがわかる。
親鸞の流れから、妙好人という、禅の悟りそのままの精神像が出現したのも当然なことで、結局は、3人にとっての阿弥陀如来が、空の別名であったのである。
西方十万憶仏土というものも地理的呼称ではなく、大乗経典が多用する比喩にすぎない。また空はさびしいものではなく空こそ光明であるとした。そのために極楽というモチーフを借りたのである。257-258p”

脇田 幸三

建築家 株式会社綜設計代表
岐阜市生れ 名古屋市在住
1989年11月綜設計設立
主に住宅・マンション・医院を設計
名古屋工業大学大学院修了
テーマ:“大きな人を育て、大きな人生を歩む”住まい
趣味:読書、朝のランニング