本の感想|この国のかたち 四

司馬遼太郎著 文芸文庫 1997.02.10

この巻は、昭和初期十数年間の別国・統帥権について81~85の5稿が目立ちます。読みながら共感した箇所を中心に感想(◆)を書きます。

第四巻は、以下のように20の話から成ります。
73馬 74室町の世 75徳 76士 77わだつみ 78庭 79松 80招魂 81別国 82統帥権(一) 83統帥権(二) 84統帥権(三) 85統帥権(四) 86うるし 87白石の父 88近代以前の自伝 89李朝と明治維新 90長崎 91船と想像力 92御坊主 口述加筆/日本人の20世紀

◆馬を話題に奥州と沿海州の交流が描かれます。大陸北との関係はあったのでしょう。
73 馬、より
”馬は、一等が駆けだせば数百頭がこれを追うという習性をもっている。環境上、チンギス・ハーンがこの習性から戦術をおもいついたのはふしぎではないが・・・
それとも奥州には遠く韃靼からそういう文化が入っていたのか、もし後者だとすると、じつにおもいろい。むろん、”チンギス汗義経説”は、荒唐無稽で、むしろ奥州と沿海州の交流を考えるべきではないか。18p”

◆三巻の続編です。重ねて日本文化の源流の室町です。
74 室町の世、より
”・・・能・・・茶道・・・日本庭園・・・書院造・・・日本料理の原形・・・行儀作法・・・武家礼式が挙措動作や婚礼などの礼式・・・・
日本文化の源流が、室町文化にあることに、大方、異論がないにちがいない。20p”

◆士って、私心なく志ある人を言うのかな?もっと広いよね。
76 士、より
”人間の思考が神学的価値観から解放されたときに、近代がはじまる。43p”
”もっとも、”士”という江戸期の資産は、明治期いっぱいで尽きたようで、このことはべつの主題になる。51p”

◆わだつみは、海神の古語。日本人の海人の一コマです。テグスの由来。
77 わだつみ、より
”・・・日本人の海人の世界・・・
江戸中期・・・
テグスというのは、おそらく中国の南方方言の文字で書くとすれば天蚕糸かとおもえる。
樟につく大きなイモムシを処理してつくるのである。虫の体のなかにある絹糸腺というどろりとしたものをとりだし、酢に浸し、すばやくひきのばし、何段階かをへてヒモにする。60p”

◆庭づくりも、日本独特です。絵画性から禅風への変わったのがやはり室町でした。安土桃山から江戸初期にかけ、茶道家が作庭家を兼ねる時代がありますね。
78 庭
”だから、日本庭園は世界一だというよりも、世界でもきわめてユニークな存在だと考える方が、公平かと思える。63p”
”平安時代の中期ごろまでの庭園は、大和絵(倭絵)ふうであったらしい。つまり、大和絵を描くようにして、庭をつくった。65p  ⇒ 回遊式の林泉”

”室町時代は、日本文化の醸成期だった。
庭園思想も、飛躍した。68p”
”室町時代、庭園は思想化し、大和絵な具象性から、抽象的なうつくしさにまですすんだ。
禅寺の方丈の南の軒に沿ってつくられた枯山水である。
本来、日本庭園のいのちは、「遣り水」だった。”

◆住宅用材としても松は、今では東北地方からの移入に頼っています。関東以西では、松くい虫に軒並みやられ、まとまった量がない。加えて材価の安い米松がとってかわり、松の存在感が薄い。松林を近辺で見ることが少なくなっています。海岸・湖岸で見かけますが、寂しい姿です。なので司馬さんがいう松は、風景としての印象です。
79 松、より
”日本は、松のくにである。71p2”
”松の諸相のなかでも、磯馴松がいちばんいい。71p”

”・・・縄文時代の日本の木々の主役は照葉樹だったというのである。
ところが、紀元前3世紀ごろに入った弥生式の稲作がひろがるにつれて、松の多い景色にかわて行ったという。松の日本は、たかだか2千年だということになる。74p”
”つまり、松こそ弥生式農耕の典型的な風景だという。だから稲が尊ばれるように松も尊ばれる。稲作の日本国のめでたさといっていい。75p”

”縄文という採集の世は、8、9千年つづいた。採集生活をするには当時の日本は宝のくにだった。
木の実も多く、海浜には魚介が多く、しかも東日本の諸川にはサケ・マスの遡上があるから、日本は世界一の採集の天国だったといわている。76p”

”日本人一般が中国古典に縁のうすいころから松山を神名備山カムカビヤマとしてきたし、また松をつたって年神が降臨するするとも信じてきた。平安朝のころから、正月に門松を立てる風が一般化したことも、古信仰に根ざしている。門松はときに「お松様」と敬称をつけてよばれたりした。
この「お松様」のめでたいイメージ、はるかのち、俚謡「花笠踊」(山形県)の「めでためでたの若松様よ、枝も栄えて葉も茂る」に発展したものに相違ない。80-81p”
”弥生式農耕には、すでに鉄器がそなわっていた。81p”

◆靖国神社の始まりは、戊辰戦争後につくられた招魂社でした。新しいし、戦犯の合祀はさらに新しい。創社の理由は、わかりますが。
80 招魂、より
”戊辰戦争の結果、それまでの流動的存在だった新政府が、なんとか内外に公認される政府になった。
内実はまだ封建体制のままながらも、戊辰戦争の勝利によって”新国家”ができたとかんがえてよく、その新国家としては、日本におけるあたらしい”公”としれ、戦死者たちの”私死
を、”公死”にする必要があった。でなければ、あたらしい日本国は、”公”とも国家ともいえない存在になる。
戊辰戦争がおわった明治2年、九段の上に招魂社ができたのは、そういう事情による。祭祀されるものは、時勢に先んじて、いわば”国民”のあつかいをうけた。さらにいえば、九段の招魂社は、日本における近代国家の出発点だったといえる。85-86p”
”発議者は、大村益次郎であった。86p”

◆敗戦までも昭和期、なかったことにしたいですね。別扱いにしたいですす。別国は、統帥権により支配されました。
81 別国、より
”・・・日本史のなかに連続している諸政権は、大づかみな印象としては、国民や他国のひとびとに対しておだやかで柔和だった。
ただ、昭和5、6年ごろから敗戦までの10数年間の”日本”は、別国の観があり、自国を亡ぼしたばかりか、他国にも迷惑をかけた。93p”
”この章は、昭和初期十数年間の”別国”の本質について書く。”
”こまかくいえば、統帥権そのものというより、その権についての解釈を強引に変えたて、魔法のたねとした。・・・93p”

”亡国への道は、昭和6年1931年から始まる。このとし統帥権を分与されている関東軍参謀らが、・・・満州事変をおこした。
この”事変”が日本の統帥部(参謀本部)の謀略からひきおこされたことは、いまでは細部にいたるまではっきりしている。95p”

”・・・この憲法31条は、要するに国家の大変なとき(戦時又は国家事変の場合)は、国民の権利や自由をこれを制約したり停止したりすることができるというものである。”
”昭和初年、陸軍の参謀本部が秘かに編んだ『統帥綱領』『統帥さ参考』にあっては、その条項をてこに統帥権を三権に優越させ、”統帥国家”を考えた。つまり別国をつくろうとし、げんにやりとげた。103p”

◆統帥権は、国意識の揺籃から?
82 統帥権(一)、より
”・・・江戸末期から・・・
が、外患は、幕藩体制の次元を超えた日本国意識をひとびとのあいだに醞醸させた。112p”
”どの国でもそうだが、歴史がかわる胎動期にはまず思想家があらわれ、その多くは非業に死ぬ。113p”

◆統帥権は、日本史知識の貧困と政治的詐術と軍のあいまいさから生じたの?
83 統帥権(二)、より
”まず、幕末における統帥権についてである。115p”
”珍妙なのは、その在野人たちは、鎖国こそ神代からの祖法であると信じていたことである。むろん鎖国は僅々二百数十年前に徳川幕府がやったことにすぎない。かれらの日本史知識の貧困さがうかがえる。116p”
”ついでながら、この種の在野言論の政治的詐術はその後風土化し、太平洋戦争のあとの反政府運動にも頻用された。117p”
”これによって、わが国の軍隊における統帥権のあいまいさは、すでに幕末にきざしていたといえる。125p”

◆統帥権の出発は、維新発足時の薩摩系近衛兵の政治家(=西郷)に行きつくの?
84 統帥権(三)、より
”・・・土佐・・・
一君万民という平等思想は、幕末、この藩だけではなく多くのひとびとに共有された。128p”
”幼少の天皇(明治天皇)を擁する新政府は兵をもたなかった。世界史上、軍隊をもたない革命政権は、他に例がない。129p”
”軍人は兵器を擁している。自然、このため、軍人が政治に関与すべきでないことは、先進国では常識だった。このことについて明快な思想をもっていたのは、長州出身の元勲木戸孝允だけだったかもしれない。・・・”
”結局、統帥権のみだれが、明治10年1877年の西南戦争という未曽有の内乱をひきおこし
た。”
”昭和陸軍軍閥は、昭和6、7年以降暴発をつづけ、ついに国をほろぼしたが、その出発は明治初年の薩摩系近衛兵の政治家にあった。134p”

◆統帥権は天皇にあったが、「帷幄上奏」という特権が陸軍参謀本部と海軍司令にあったことから、つけんこんで軍の暴走に至った、ようですね。
85 統帥権(四)、より
”軍は強力な殺傷力を保持しいるという意味で、猛獣にたとえてもいい。戦前、その統帥機能を、同じ猛獣の軍人が掌握した。しかも神聖権として、他から嘴がはいれば、「統帥干犯」として恫喝した。・・・136p”
”長州出身の陸軍卿山県有朋はこれに懲り、統帥の意味をあきらかにすべく、西南戦争がおわった直後から、「軍人に賜はりたる勅論」(略称・軍人勅論)のお膳立てにとりかかった。137p”
”「法体系とまぎらわしくなるのではないか」と、不安がった。”
”冒頭に、「我国の軍隊は世々天皇の統帥し給う所にそある」とある。統帥権の歴史的根拠を述べたのである。138p”
” 統帥権には、「帷幄イアク上奏」という特権が統帥機関(陸軍は参謀本部、海軍は軍司令)に与えられていた。140-141p”

◆うるしとの付き合い、実に長い。有用な植物をよくよく見出したのもです。
86 うるし、より
”福井県三方郡三方町鳥浜字高瀬の地・・・
出土した漆絵の破片には、赤い漆でって乱線や抽象文が描かれていた。
この遺跡は、縄文草創期はじめのものなら約1万2千年前だし、縄文早期末なら約6千年前である。信じがたいほどのむかしから日本人は漆をつかってきたことになる。149-150p”

”紀元前3世紀にコメが伝来して、日本列島のくらしが一変し、稲作がはじまる。
が、稲作が幸せだっかかどうか疑問をもちたくなるほどに縄文時代のくらしはよかったらしいのである。150p”
”その一方で、高度の漆工芸は、大陸から伝来した。150p”

”仏教は、「日本書紀」によると、551年、百済から伝わった、とされる。その後の造寺・造物が、建築技術を一変させた。
さらには、冶金技術、瓦・磚などの窯業技術、製紙、染織から漆工芸の技術なども仏教に付随して入ってきた。”

”・・・紀州/根来衆・・・「根来」⇒漆の什器
根来文化は、根来寺が秀吉によって1485年に亡ぼされる300年つづいた。154p”

◆新井白石って、すごい文章家だったのですね。
87 白石の父、より
”新井白石1657~1725
江戸中期の儒者で、実証主義的な歴史家でもあった。・・・身は封建時代にありつとも、観察眼は、近代人だったというほかなあい。
詩文に長じた。
それ以上に、表現力のゆたかな和文を書いて、日本文学史上の巨人になったことのほうが大きい。理性と論理が心地よく、達意の文章であった。156-157p”

◆自身を商品化するのが俳優! 自伝も商品化の面がある?
88 近代以前の自伝、より
”江戸時代の自伝・・・山鹿素行・新井白石・・・両人とも浪人の子で、寄るべきものは自己のみという境涯であったことは、人はなぜ自伝を書くかという課題の一参考になる。172p”
”・・・松平定信・・・
自己そのものを商品に仕立てあげるについては、俳優にまさる存在はない。172p”
”近代以前の日本がキリスト教社会ではなかったのになぜ自伝がこのようにして多く成立したかについては、もっと考察されていい。173p”

◆船の規制が、世界への想像力を弱めましたね。鎖国前、いろいろな船を持っていました。
91 船と想像力、より
”反対に、この島嶼国家を鎖そうとおもえば-国民の想像力を封殺しようとするならー航海用の大船をもつことを禁止してしまえばよかった。196p”
”・・・多帆の朱印船型(南蛮渡来の天測具)の大船、軍船として大船の安宅型、スピードが速く駆逐艦の機能をもつ関船・・・”

◆世阿弥は、時宗を名乗り、同朋という立場になり、将軍に接しれた、とは。宗教理解は大事。
92 御坊主、より
”江戸城では、御坊主衆の組頭のことを、とくに「同朋」とよんだ。この職名は、室町幕府の職制からきている。・・・
同朋とは、なかま、という意味である。さらに言葉の起源を探っていえば、念仏の仲間という意味である。念仏の同朋は万人平等であるという思想がこめられている。
同朋ということばそのものは、鎌倉中期の時宗の開祖一遍上人に由来する。一遍は強いて教団をつくらず、僧俗の区別さえ外し、阿弥陀如来を欣求する者は、みな”御同朋・御同行”であるとした。
ついでながら、時宗の徒は、自分の名に阿弥陀仏をつけた。たとえば世阿弥陀仏というふうにである。略して世阿弥という。
室町初期の能役者世阿弥は、阿弥号をつけ、同朋になることによって将軍と対座できた。そこに居てしかも居ないという職種は、玄妙というほかない。208-209p”

口述加筆・・・日本人の20世紀
◆石油が欲しかっただけの太平洋への展開、まったく無理がありました。
『為政者は手の内を明かさない』、より
”たとえば第一次大戦で、陸軍の輸送用の車輛や戦車などの兵器、また軍艦が石油で動くようになりました。石油を他から輸入するしかない大正時代の日本は、正直に手の内を明かして、列強並みの陸海軍はもてない、他からの侵入をうけた場合のみの戦力にきりかえる。そう言うべきなのに、おくびにも洩らさず、昭和になって、軍備上の根底的な弱点を押しかくして、かえって軍部を中心にファナティシズムをはびこらせまました。不正直というのは、国をほろぼすほどの力があるのです。220p”

『ロシアへの恐怖』
『士の時代とリアリズム』
『蒙古草原のファナティズム』
『軍事的教養のない日本の知識人』
『連合艦隊の本質は輸送艦隊』

◆現実感覚をなくし、頭でっかちで太平洋戦争に。精神論では勝てませんね。
『なぜリアリズムを失ったか』、より
”人間というものははかないもので、自分の経験したところからべつな方向へ飛躍するということは、困難なようです。とくに国家という集団になるとそうです。
軍事にかぎっていうと、日本は第一次大戦を実践として経ていなかったことが、20世紀の世界の軍事思想から遅れたということになるでしょう。243p”
”火力の増大・兵員物資の輸送 → ガソリン・重油、トラック、戦車・・・243p”

”陸軍省や海軍省の省益がそうさせなかったのでしょうな。官吏として職業的利害と職業的面子が、しだいに自分の足もとから現実感覚をうしなわせ、精神主義に陥っていったのでしょう。物事が合理的に考えられなくなる。この傾向は、昭和4年、昭和恐慌のパニック以降にさらに顕著になり、それが太平洋戦争の敗戦まで続いていきます。245p”

◆左翼って、ロシア革命後の産物でした。空論っぽい理由が分かります。
『左翼歴史観に日本史はなかった』、より
”20世紀が開幕したときに、日本は現実感覚に富んだやり方でもって日露戦争に勝った。結果としてロシアはソ連になり、イデオロギーの国になった。そのイデオロギーがこんどは日本に影響して左翼を生み、その左翼の反作用として右翼を生み、いよいよ現実感覚を失わせたということが言えるでしょう。250-251p”

◆明治は借り物の時代でしたから、輸入文化に現実感がついてこなかった。現在は?
『文化にも現実が根づかない』、より
”明治のリアリズムは、正岡子規の写実主義を生んだことで、文化としては大きな収穫があります。ただ写実主義は、・・・というリアリズムにとどまって、つぎの社会(大正時代)の思想的基盤になるほどの力はありませんでした。252p”

”なんだか、西洋人の観念には、神という絶対の存在-つまり比類を絶した唯一のウソーがあるように思いますね。古来、神学は、ありもしない絶対(神)をある、ある、という哲学的論証を重ねつつ、論理と修辞と叙述を発達させてきたような観があります。255p”

◆軍事的な知識・常識がないのがインテリであり、私たち国民ですね。軍事を嫌う六朝文化までさかのぼれるのですから、根が深いですね。
『日本の大正時代にゆきたい』、より
”・・・どうも日本のインテリの風潮として、藤原定家のいう「紅旗征伐はわがことにあらず」という万事六朝風であって、軍事そのものを忌み嫌う傾向があります。
・・・奈良朝以前、百済経由で日本に入ってきた中国文化は、多分に六朝のものでした。この風は、平安朝の公家文化に遺伝しています。
ともかくも、明治・大正のインテリが軍事を別世界のことだと思い込んできたのが、昭和になって軍部の独走という非リアリズムを許したのだと思います。260-261p”

◆これからの指針です。現実的であり、ふとい背骨、強直さが求められます。
『日本が難破しないために』、より
”日本は商人国家などと、わりあい自虐的に語られますが、歴史的に日本の商人は十分に魂の入った存在でした。263p”

”この場合、私の脳裡には商人の理想的なイメージとして、江戸時代の商人にして学者、思想家だった山片蟠桃や富永仲元、商人としてすぐれた対露外交をやった高田屋嘉平衛などが去来します。かれらは、武士以上に論理のふとい背骨がありました。武士のつまらない官僚主義はもっていませんでした。武士以上に強直でした。264p”

脇田 幸三

建築家 株式会社綜設計代表
岐阜市生れ 名古屋市在住
1989年11月綜設計設立
主に住宅・マンション・医院を設計
名古屋工業大学大学院修了
テーマ:“大きな人を育て、大きな人生を歩む”住まい
趣味:読書、朝のランニング