本の感想|この国のかたち 五

司馬遼太郎著 文芸文庫 1999.01.10
この巻は、神道-7稿、鉄-5稿、宋学-4稿が多くを占めます。読みながら共感した箇所を中心に感想(◆)を書きます。

第五巻は、以下のように23の話と口述加筆から成ります。
93神道(一) 94神道(二) 95神道(三) 96神道(四) 97神道(五) 98神道(六) 99神道(七) 100会津 101大名と土地 102鉄(一) 103鉄(二) 104鉄(三) 105鉄(四) 106鉄(五) 107室町の世 108連歌 109宋学(一) 110宋学(二) 111宋学(三) 112宋学(四) 113看羊録(一) 114看羊録(二) 115藤原惺窩 口述加筆

◆宗教の条件は、教祖・教義・経典を持つこと。古神道は、自然発生的で宗教ではありません。それが、じょじょに仏教と併存し、宗教っぽくなります。
93 神道(一)、より
”神道に、教祖も教義もない。
畏れを覚えればすぐ、そのまわりを清め、みだりに足を踏み入れてけがさぬようにした。それが、神道だった。
むろん、社殿は必要としない。社殿は、はるかな後世、仏教が伝わってくると、それを見習ってできた風である。9p”

”・・・仏教伝来・・・仏像・・・法隆寺の建立/飛鳥時代607年推古15年・・・仏教を受容した奈良朝(710~784)・・・神道派の反対・・・神の没落「日本の神々は迷っている」・・神に経を聞かせる/仏は上、神は下”

”八幡神という異様な神・・・奈良朝まで豊国の宇佐に一社/渡来人の小集団 → 6世紀半ば過ぎ、異国めいた神が湧出/託言をのべる・・・欣明天皇32年571年名を乗った「われは誉田天応(応神天皇)である」/最初から人格神・・・大和宮廷は無視できなくなる”
”仏教が盛んになると、”自分はむかしインドの神だった”と託宣し、新時代に調和した。16p”

”聖武天皇(701~756)は仏教をもって立国の思想としようとしただけに八幡神の仏教好きをよろこび、天平10年738年、宇佐の境内に勅願によって弥勒寺を建立させた。”
”さらに聖武天皇が大仏を建立したとき、八幡神はしばしばこの大事業のために託宣した。
聖武天皇は多いによろこび、大仏殿の鏡池のほとりに東大寺の鎮守の神として手向山八幡宮を造営した。
神社が寺院を守護したのである。いわば、同格に近くなった。これが、平安朝に入って展開される神仏習合という、全き同格化のはじまりになったといえる。17p”

”平安朝の神仏習合の思想は、神々の本地(故郷)じゃインドで、たまたま日本に垂迹した、ということが基礎になっている。・・・この平安朝の思想の先駆をなしているのが、「自分は、むかしはインドの神だった」という八幡神の託宣だった。18p”

◆大陸渡来の仏教がすごく有難みがありそうで、仏教を国教扱いしていくのですが、神道をないがしろにできず、神が仏と併存合体化していきます。まったく奇妙だけど、独創的だった、と。
94 神道(二)、より
”・・・東大寺 大仏を造立/華厳経の廬舎那仏・・・
聖武天皇にもひるみがなかったわけではない。
とくに、伊勢神宮にたいしてである。
伊勢神宮は皇室の宗廟であるだけでなく、神社の筆頭であり、また中国ふうにいえば社稷そのものだった。・・・
そういう憚りがあったため、大仏造立の詔を発する前々年741年、僧行基を伊勢に派遣したのである。23p”
”ついでながら、いまも八幡神はお経を聞いている。
場所は、奈良の東大寺であう。ここに8、9世紀からと思われる「八幡殿講問」という、ふしぎな法要がつづいている。24p”

”哲学的要素もある。
「和光同塵」ということばが、法要のなかで高唱されるのである。”

”おもしろいことに、和光同塵は仏教のことばではなくて道教の用語なのである。
老子は、宇宙における唯一の道理を”道”とよんだ。目には見えず、しかもカラッポ(沖)であるという。仏教でいう空に似ている。
道は、光でもある。しかし現象としては鋭くは現れず、和光して-その光を薄くしてー現れる。現れたものは、塵にまじりあっている。26p”

”ともかくも、8、9世紀における神仏習合は、たぶんに窮余の策ながら、日本人最初の独創的な着想だったにちがいない。27p”

◆伊勢神宮の話です。大陸の影響ですね、建築化してきたのは。元々は、山であったり、樹々であったり、何か尊いと感じた印だったのです。それが、大王の居場所が転じて社に。
95 神道(三)、より
”古神道というのは、真水のようにすっきりとして平明である。
教義などはなく、ただその一角を清らかにしておけば、すでにそこに神が在す。
例として、滝原の宮が一番いい。
滝原は、あまり人に知られていない。伊勢にある。伊勢神宮の西南西、直線にして30キロほどの山中にあって、老杉の森にかこまれ、伊勢神宮をそっくり小型にしたような境域に鎮まっている。29p”

◆社稷の説明と内宮に対する外宮の関係を述べています。なぜ、伊勢だったのか、不思議です。
96 神道(四)、より
”社稷という漢語がある。転じて国家と同義語になった。
もとの意味は、対の壇のことである。二基あった。37p”

”社は、土地の神という意味である。
稷とは、原義はキビのことで、転じて五穀一般、食物すべてのこと。さらに転じてそれを司る神のことをいう。38p”

”外宮の成立は、大陸的な国家をつくった奈良朝よりはるかに前のことである。当時の人の心も古樸で、それが大陸の影響だという意識もなかったにちがいない。40p”
”げんに、内宮・外宮の社殿建築をみても、大陸からの影響はない。宇宙のしんを感じさせるほどに質朴簡素である。
社殿は、5世紀ごろの大王の宮殿そのままであると考えていい。41p”

”神宮に幣帛ヘイハクを奉るのは天皇のみにかぎられ、・・・幣帛とは、元来布のこと。転じて、経費のこと。43p”
”社稷が、大衆化したのである。45p”

◆神話をもってして日本国が生まれる。わかりません。古神道から神話神道へ、護国仏教を挟んで神仏習合へ、さらに神仏分離そして国家神道へ。維新は、無理が多かったと思います。
97 神道(五)、より
”・・・大和盆地・・・
こんなに盆景のように小さな野から、よくぞ『古事記』『日本書紀』のなかの大和政権がうまれたものである。46p”

”明治維新1868年が成立草々にだされた号令は、「神仏は分離せよ」というものだった(神仏分離・廃仏毀釈)。
さたに明治政府は、神道を国教化するため、・・・
・・・明治の国家神道の非自然さを、・・・・”

◆八幡宮ってよく聞きます。宇佐から始まって、特異な存在です。武の神というイメージは、源氏がつくったものでした。
98 神道(六)、より
”八幡神ほど、無名から出て、中世初頭まで、世に注目されつづけた神もない。56p”
”八幡神が、568年、・・・出現・・・日本固有神ではなく、蕃神だった。56p”

”社殿の建築様式が”八幡造”と呼ばれる華麗なものであることもきわだっていた。この
様式はすでに弘仁年間(810~823)に確立していたというから、・・・ 57p”

”平安初期には、石清水八幡宮は、伊勢神宮とならんで皇室の宗廟とされた。『古事記』『日本書紀』に神名の出てない神としては破格の沙汰といっていい。58p”

”さて、清和源氏のことである。
さらに八幡神の歴史できわだっていたのは、頼義がこの神をもって氏神としたことであった。・・・家系とも神話とも無縁の外来神を氏神にした。このことによって、八幡神はべつな展開をとげる。なによりも、武の神になった。60p”
”いずれにしても、日本史上最初の耕作者の首領たちの政権ができたのである。絵空事のような律令制度からみれば、すべての点で現実感覚にあふれ、思想や芸術にいたるまでリアリズムにみちたものになった。鎌倉幕府から日本国の国民史がはじまったとあえいえそうである。61p”

”元来、この神の政治好きは、中央政界に託宣することだったが、神としての作用がかわって、日本国に、京の律令制以外の政権がうまれるための生みの場の神たらざるをえなくなったのである。
・・・由比ガ浜 ⇒ 鶴岡 ⇒ 大路 ・・・首都鴨倉建設の中心軸に 63p”
”頼朝ほど、八幡神を使ったひとも、いない。64p”
”・・・大きな公務はみな鶴岡八幡宮で執った。65p”

◆沈黙の古神道が、平田篤胤により多弁になり宗教に傾斜していった、と。神社が国家神道の道を歩むと、平田国学と別れた、と。この辺り、よくわかりません。
99 神道(七)、より
”神道という用語例は、すでに8世紀の『日本書紀』にある。
シントウと澄んでよむならわしは、平安時代にはじまるという。
理由は、日本語は元来、清音をよしとしてきたという程度だったろう。・・・古音は、一般に澄む。66p”
”・・・それほど神道は多弁ではなく、沈黙がその内容にふさわしかった。66p”

”神道までが、中世になって能弁に語り始めたのである。68p”

”神道という無言のものに思想的な体系をあたえた最大の功労者は、江戸後期の国学者平田篤胤1776~1843だった。
篤胤は、国学を一挙に宗教に傾斜させた。神道に多量の言語をあたえたのである。
かれは『古事記』を分解して組み立て直した。79p”

”ひとつには、平田国学を奉ずるひとびとが、江戸後期の第3の知識層ともいうべき地方の富農・富商階級に多かったことによる。つまり需要者たちが旦那の風をもって温雅な印象を世間にあたえたのである。
なによりも、かれらを富める苗字帯刀層にあたえた感動は、平田国学によって幕藩体制のなかではじめて日本国の天地を見出させた、ということだった。奈良朝の大陸文化の受容以来、篤胤によって別国が湧出したのである。71p”

”やがて”尊王攘夷”が、討幕の合言葉になった。このことばそのものは朱子学に由来していたが、平田国学を奉ずる旦那衆の日本観と割符が合うように合った。72p”

”やがて神社が国家神道に転換したとき、平田国学は捨てられた。国家神道の教義にするには、あまりにも宗教色がつよかったのである。73p”

◆官軍に対し、白虎隊の憤死や会津若松城の籠城など楯突いた結果が大きかったようですね。
100 会津、より
”昨年1993年、県立のユニークな単科大学が開学した(会津大学)。明治後、会津若松市におかれた最初の高等教育研究機関である。
「この日を、会津は120年、待っていたんです」83p
・・・会津人としては、大げさな感想ではなさそそうなのである。84p”
◆大名が原則土地を持たずに、支配権だけをもっていたのは意外ですね。
101 大名と土地、より
”300諸侯”というが、明治2年1869年の段階での大名の人数は、262人だった。85p”
”江戸時代の土地所有の慣習でおもしろいのは、大名が所有する江戸での土地は、この上屋敷(拝領屋敷)だけだったことである。87p”

”城は、漠然とした観念ながら、公のものという思想がかくりつしていたのにちがいない。”
”大名たるものは、その領地にあって、農地や市街地に一坪の土地も所有していなかった。大名はひろく領内の支配権をもっていただけだった。89p”

◆鉄の最初の使用者はヒッタイトと教科書で学びました。錆びやすいけど、強度大。武器にも、生産用道具としても活躍。歴史の陰の推進力でした。
102 鉄(一)、より
”鉄ほど、人類に深くむすびついた金属もない。”
”また鉄ときいてすぐさま兵器を連想するのも、気が早すぎる。鉄は、スキやクワに使われることによって、社会の容量を大きくしたのである。94p”
”しかしながら、一面、鉄は人間に好奇心を教えた。・・・大工道具→便利な建物や船舶・・・土木道具→巨大構造95p”

”匈奴の鏃や剣の製造はスキタイ人 紀元前6世紀南シベリア~紀元前1世紀ごろ滅ぶ・・・青銅器文化=タガール文化 わずかに鉄器も 96-97p”
”鉄の起源: オリエント考古学では中国よりはるかに古い97p”

”中国で・・・鉄の生産がある程度の規模で始まったのは、紀元前5世紀ごろである。ただしその後も、青銅器と混用される時代がつづいた。たとえば秦の始皇帝(前259~前210)のころでも、鉄は・・・98p”

”紀元前の武帝の世に出現した製鉄技術は、他の文明世界に類のない方法だった。
最初から鋳鉄(いもの)だった。
西方では、鉄の最初の持ちぬしである紀元前2000年のヒッタイト人の製鉄以来、鍛鉄であった。鉄鉱石を、極端に表現すれば生焼きにして、これを叩くなどの方法によって炭素を追いだし、錬鉄に変える。さらに鍛えて、鋼スティールの(はがね)にする(ついでながら日本史上の製鉄は、原料は鉄鉱石でなく砂鉄で、方法は右と同じく鍛鉄だった)。”

”これに対し、鋳鉄は、古代では高度の技術だったといえる。
原料を”生焼き”ではなく、”湯”にせねばならない。
”湯”にするためには、おそろしいばかりの高度のるつぼと火炎技術が必要だった。99p”
”古代中国では、先行の発達しぬいた青銅冶金の技術が製鉄に転用されたか、”湯”にするるつぼが、容易につくられたと考えていい。
それに燃料も、ヨーロッパの製鉄が17、18世紀まで木炭であったのに対し、古代中国はすでに石炭が用いられていた。99-100p”
”しかし、中国の古代製鉄の場合、いものでありながら、ジョセフ・ニーダムによると、粘い錬鉄に近い性質をもっていたようである。100p”

”一面、武帝にとってもーこれも想像だが―沸騰する製鉄産業がこわくなったのではないかとおもえる。
古代製鉄は、戦争のように多くの人数をひつようとした。・・・その上、製鉄業者は、巨富を得ていた。
さらには、鉄器が人々の好奇心をつぎつぎに生みだすということを、武帝は不安だったかもしれない。102p”
”武帝は、果断だった。かれは鉄を専売制にすることによって、あれほど沸騰していた製鉄やその業者たちを、一挙につぶした。・・・
さらに、武帝は精神面の統一もはかった。儒教を国教にしたのである。102-103p”

◆日本の鉄生産は、大陸に比べ随分遅かったです。必要性が薄かったのと島国だったから?
103 鉄(二)、より
”鉄は、日本の場合、弥生文化(水稲農耕の文化)のセットの一部として、海のかなたからきた。
弥生文化は紀元前3世紀ごろ北九州ではじまり、紀元3世紀後半には東北地方まで展開した。   104p”

”この農業のおかしさは、最初から土木を伴ったことである。水田という土の容器を造成し、それに水をたたえ、ときに排水する。
この土木には、スキ・クワや、堰などに使う板が必要だった。鉄は、それら木製道具をつくるのに、威力を発揮した。
ついでながら弥生時代のスキ・クワは、ふつう刃先まで木で、刃を鉄にするほど、鉄は潤沢ではなかった。105p”

”弥生時代の鉄は、日本製ではなく、ほぼ朝鮮半島から舶載されてやってきた。”
”・・・「魏志」「倭人伝」・「東夷伝」(朝鮮)・・・弁辰という小国・いまの釜山あたり・・・このあたりは古代日本と縁が深く、人のゆききも多かったようである。107p”
”一方で山の木を伐り、乾燥して木炭をつくり、それを燃料にして、タタラでもって鉄のもと(鉧ケラ)をつくり、工程をかさねて短冊形の薄板(鉄鋋)を製造するのである。107p”
”倭・・・その主力は日本列島に住む。そのうちの小グループがどうやら弁辰に住んでいたらしい。古代史のふしぎである。”

”ともかくも、このようにして日本に輸入された鉄鋋がすこしずつふえてゆくにつれ、歴史は単なる水田農耕社会から、古墳時代へ移る。鉄が、移させた。108p”
”・・・クワの刃先に鉄鋋を”挿し葉”にする・・・109p”

”鉄の生産は、4世紀ごろはじまったようである。
しかし、日本列島全体の鉄需要のせめて半分ぐらいが国内生産でまかなえる段階をもって”国産の開始”とすれば、5、6世紀ごろからではないか。
となると、鉄の国産化は古墳時代の後半のことであり、その6世紀の後半には仏教も渡来する(538年~)。また『古事記』『日本書紀』の諸記述も事実の相貌を濃くしはじめる。古代の霧が晴れてくるような世紀である。110p”
”・・・古代朝鮮の気候・地質・・・
ともかく日本では樹木の再生力が高かったということが、その後の日本史の展開の基礎的なものになった。112p”

◆鉄が樹木を切り倒し、荒地・平原にしてきた。遅れて日本では繁茂力さかんな中国地方で生産がおこなわれる。鉄のスキ・クワが鎌倉武士を育てた。なるほど、です。
104 鉄(三)、より
”古代、中国の華北平野は大樹海だったらしい。
耕地がひろがり、さかんに森が伐られた。決定的にしたのは、殷・周以来の旺盛な青銅冶金だった。燃料として木が伐られ、あわせて農地の拡大によって広やかな野になった。
もっとも、土壌が黄土であることが、農業に幸いした。113p”
”この点、似たような経過をへたギリシアは、古代の冶金文化と農地の拡大のために森をうしない、土が乾き、風に土壌が吹きとばされ、骨のような岩肌が露出した。古代ギリシア文明は樹木を失ったため衰亡したともいえる。113-114p”

”「出雲」というのはいまの島根県の東半分だが、古代では範囲は広かった。
それに、日本の古代説話のなかでは、出雲という像はくっきりと独立した存在になっている。前掲の仮設でも設けねば、このユニークな説明がつきにくい。115p”
”神話も、出雲は独立している。
・・・スサノウノ命・・・八岐大蛇・・・土着の農耕民が難渋⇒大蛇を退治、奇稲田姫をめとる 117p”

”山脈の北側の出雲、石見、因幡、伯耆では、主として鋼のもとともいうべき玉鋼がつくられ、一方、南側の奇美の国では、北側から玉鋼を買い、それを吹いてスキ・クワや包丁、刀など成形品を鍛造することが、主だった。この”住みわけ”は、江戸期がおわるまで、変わらなかった。
”古代、鉄が国産化されたとはいえ、安価に―たとえば農民でも鉄製のクワが買えるようになる―までには、500年以上はかかったかと思われる。118p”

”古代関東 ⇒ 平安中期・10世紀ごろ、私的要素の濃い農場主=武士が多く 119p”
”武士(農場主)たちは鉄製のスキ・キワをたっぷり持っていた。鉄の値が安くなっていたのである。120p”

◆加賀がおくれて穀倉地帯になったのも鉄の普及が遅れたため、と。庶民の共有・融和は浄土真宗と結びつき、15世紀末から100年、百姓の自治の国となった、と。ユニークです。
105 鉄(四)、より
”石川県の加賀平野(金沢平野とも)は、美田で知られる。121p”
”鉄が零細者にとっても安いという値段まで加賀平野は放置されていたといえなくもない。123p”
”その後、加賀平野は、13、14世紀になって、以上のような節目の武士たちではなく、無名の庶民によって拓かれた。124p”
”・・・水路を共同でひらいたり、共有したりするには、ひとびとの融和が必要だった。加賀人の気分の成立は、このあたりに淵源するかと思える。
たまたま平等を説く浄土真宗が加賀に入り、ひとびとが帰依したことも、この平野での共同体意識を強めた。この宗旨は平等を説き、念仏を信ずる人たちはみな、”御同行・御同朋”であると言いあった。125p”

”ともかくも、加賀の国は、15世紀後半には、大いなる穀倉地帯になった。
加賀平野一円は浄土真宗の”講”によって結ばれ、同信の者にとって日常の些事まで、”講”の寄合できめられた。
・・・
ついには、15世紀末1488年、数万の門徒軍が富樫氏の居城高尾城を包囲し、当主の政親を自刃させた。126p”
”以後、加賀には、100年間、守護はいなかった。国中のことは村々の代表できめられたために、「百姓ノ持タル国」などといわれた。”
”12世紀末、関東にあってはその結果が鎌倉幕府を興したが、遅れて開発された加賀では右のように「百姓ノ持タル国」に発展した。
・・・
この”百姓の加賀国”は、ヨーロッパの中世の教会頭のように、本願寺を来世の領主のようにあがめ、現世でもそれに隷属した。127p”

◆鉄生産には、木炭=森を必要とし山が乱伐される。中国では石炭が使われる。日本刀は輸出品にもなった。一方、農機具や大工道具として近代以前に精度を高め、維新につなぐ、と。
106 鉄(五)、より
”砂鉄から鉄をつくる一工程のことを、「ひとよ」という。三昼夜をもって、一夜とする。たとえば2トンの鉄塊を得るのに12トンの砂鉄が要った。それとおなじく12トンの木炭。つまりひと山を裸にするほどの木炭を食った。129p”

”『管子』に、森が鉄を生むという表現がある。
管仲の時代、鉄は異民族がもっていた。かれは漢民族もそれをもつべきだといい、それにはまず森を造成しなければならない、とした。
ということは、管仲の時代には華北平野にはすでに森がすくなくなっていたのだろうと想像できる。130p”
”だた中国史のある段階で-いつのころか不分明だがー燃料に石炭がつかわれるようになり、冶金による森林の乱伐が、やや喰いとめられたかのようである。131p”

”室町時代は、対明貿易の時代である。官貿易も私貿易もさかえたが、輸出品目の筆頭はつねに日本刀だったことが、おもしろい。131p”
”刀剣は、時代によって精粗がある。名刀は主として鎌倉時代か、くだっては江戸初期につくられた。
倭寇がはびこった室町時代は、日本刀が粗製乱造されたといわれる。
「数打物」とか、「束刀」などといわれた。133p”

”「備前」という刀の生産地は、すでに鎌倉時代から有名だった。とくに中国山脈の南側の福岡や長船オサフネが、鍛冶の里とされてきた。133-134p”
”刀のもとの鉄は、玉鋼とよばれる。さきに、12トンの砂鉄からとれる鉄塊は2トンでしかない、とのべた。その2トンの鉄塊からさらに精錬して3分の1ほどとれるのが、玉鋼である。134p”

”鉄は、本体、刀槍よりも農機具や大工道具として、近代以前の社会に影響をあたえてきた。135p”
”いわば、実用という域を超えて、無用にちかいばかりの精度を求められた。その精度への忠実と厳格さが、19世紀後半、西欧の機械文明を受けいれる上での受け皿になったかと思える。 136p”

”・・・幕末・・・
いずれも外国の専門家の指導をうけることなく、書物から解きおこして築造された。江戸期の好奇心や経験が、こういう形で結実したのだ。138p”

◆強権の幕府はなく、商工業・農業が発展し、貨幣経済の世となり、乱世へと連なる室町。確か3度目の同名の稿です。文化を高く、評価。
107 室町の世、より
”質朴さ ⇒ 武より美を誇示する傾向
商工業の発達・・・醸造業者&金貸し業⇒大金持ち=「うとく」
農業生産増 ⇒ 人口増 ・・・ 農民に自立の風 140-141p”
”・・・自衛・・・一揆 ・・・国人・国衆  ⇒ ”領国大名”・・・下剋上 142-143p”
”応仁の乱1467年~10年 京都における最初の市街戦/足軽の登場・農村のあぶれ者   144-145p”
”以後、百十数年、乱世がつづく。”
”貨幣経済の世・・・”
”ただ、文化はすばらしかった。
能・狂言、茶道、いけ花、庭園、数寄屋普請、それに「武家礼式」による婚礼その他の儀式、あるいは京料理の成立など日本文化の源流が、室町時代という、政治で統御しがたかった活発なこの乱世に発している。146-147p”

◆イデオロギー=体系化された観念、政治・社会思想が日本社会を振り回したのは、共産・社会主義が最初ではありません。朱子学にもこっぴどくやられました。
109 宋学(一)、より
”日本に最初にイデオロギーが入ったのは、14世紀の鎌倉時代の末期ごろである。宋学とよばれた。”
”ここでいうイデオロギーとは唯一絶対の一個の観念がするどい切っ先さきをなし、剣のように体系化された思想のありかたとして使いたい。
これをもって、地上の諸存在を善か悪かに峻別して、検断する。159p”

”・・・儒教とは、華(文明)であるにはどうすればいいかという”宗教”で、野蛮を悪としてきた。160p”
”・・・朱子は、・・・むしろこうあるべきだという観念を先行させた。・・・
朱子学にあっては、歴についても、史実の探求よりも大義名分という観念の尺度をあて、静寂を検断した。161p”

◆鎌倉といえば、力強い運慶・快慶の彫刻を思い浮かべます。思想としては
、浄土宗・浄土真宗・一遍、禅、日蓮、平安からの密教、そして宋学が加わった。
110 宋学(二)・・・鎌倉時代の諸思想の概観、より
”12世紀末、源頼朝が鎌倉幕府を興した。驚天動地のことだった。
この時代、武士とは農場主のことである。”
”鎌倉の世になり、田地の所有が明快になったことで、芸術(とくに彫刻)にも、影響があらわれた。なま身の現実感覚というべきものだった。167p”

”思想にも、影響があらわれた。
たとえばそれまでの仏教では、天才のみが覚者(仏)になることができた。
これに対し、法然は、膨大な経典から阿弥陀如来の経典のみをひきぬき、出来のわるい者(悪人)も成仏できるとした。
その弟子親鸞は、さらに徹底し、出来のわるい者こそ成仏できるとした。人間は本来出来がとくないという深刻な認識ーいわば鎌倉時代ふうの現実感覚ーに立ったのである。
一遍にいたってはそれ以上に徹底し、ひらすら捨てよ、といった。捨てようという自分も捨てよ、と仏教の本質のみを単純に説き、漂泊のなかに死んだ。168p”

”武士層は、新米の禅に凝った。
禅とは、おのれは何かという単純勁烈な一項目にのみ思いを集中する方法である。やがて解脱という昇華に似た作用がおこることを期待した。蒙古襲来のときの執権北条時宗の心構えと指揮のやり方こそ、政治の中の禅の真骨頂だったといっていい。
日蓮が出た。
経典の倉庫のような天台宗(叡山)から、法華経関係の経典のみをとりだし、この経典のみをたたえよ、とした。”

”これからみて、京の公家の多くは、なお古い平安仏教のなかにいたといっていい。
とくに、密教が好まれた。
密教とは、自分を宇宙に同化させるという体系で、術を伴う。術とは、たとえば安座の加持とか、敵を調伏するとかといった呪術的な技術のことである。168-169p”

”密教・・・平安朝数百年、思想や美術に影響大⇒ただ時が経つにつれ呪術化され、左道化
根本経典は『理趣経』 なかに性的な比喩  『理趣釈』:まことに、きわどい解説書
「妙適」:もしそれが清浄であれば妙適もまた菩薩の位である
⇒鎌倉時代に「立川流」・・・文観1278~1357:男女交接の比喩を論理の中央に
・・・後醍醐天皇は、この文観に帰依 170-173p”

”これに、宋学が加わる。
・・・鎌倉末期にいたって、貨幣経済が勃興する。・・・自給自足経済に貨幣が入ると、どの社会でもその初期には人心が荒れるのである。
のちに来る南北朝の乱は、このような時代相を基礎にしていた。174p”

◆南朝ー楠木正成の再評価が、顕正され神社になった例です。
111 宋学(三)、より
”・・・津の結城神社・・・南北朝の乱で南に結城宗弘・・・入道塚
⇒江戸の朱子学・光圀・・・⇒ 顕正 ⇒ 明治期に神社に”

◆正成の最後が、「帷幄上奏兼」に結びついたのでは、という見解です。思い入れが激しいと、強い拘りになっていきます。
112 宋学(四)、より
”楠木正成は、後世のイデオロギーのなかで浮沈した。
昭和初期の軍部は、「帷幄上奏兼」に固執した。その気分の底に、正成の策が、当時の行政権の輔弼者だった坊門清代忠の一言ではねつけられたという情景が、共有の悲憤としてあったのではないか。192p”

◆形式的な固まった学問より、自由な不定形な学問の方が発展性があります。
116 不定形の江戸学問、より
”原始儒教は、孝が中心にすえられた。
それを表現する上で、礼を用いた。そのことで一身を修めるだけでなく、天下もおさまるとした。221p”
”江戸前期の儒学・・・まことに自由あるいは不定形というふかない。224p”

”・・・松平定信1790:”寛政異学の禁” 江戸後期は朱子学が主流に226p”
”一方、学校としては、大阪の懐徳堂が盛んだった。・・・当初は、通俗道徳の講話の場だった。・・・総合大学のにおいがあった。
・・・その不定形のなかから、学問的方法が近代そのものといわれる富永仲元や山片蟠桃がうまれたことを思うと、日本儒学の不定形な歴史をむしろ大いなるものといわざるをえない。   227-228p”

人間の魅力  口述加筆
◆お上に従順な日本人って、明治期につくられた?年老いるってこと、そうかも知れません。

”戦前の日本人は、国家に対して従順でした。・・・羊だった理由はあります。1889年に帝国憲法が発布されて、法治国家の”国民”になったことがうれしかったこと、それから16年後にロシアの南下を押しかえしたこと(日露戦争)が、国家への信頼とむすびつきました。お上のなさることはまちがいないと思いこむようになって、大正・昭和を迎えてしまったのです。    232-233p”

”また、将来の日本はどうあるべきかなどいうことも、自分の分ではなさそうです。トシをとると、不易なものに安堵尾を覚えるようになりますね。自然が身にしみて美しいと思えるようになるとともに、世々に生きた人達に、人としての魅力を一入感ずるようになります。同時に、不易でなく安易イージーになりますな。・・・233p”

◆大変革期のもつ雰囲気は、牽引する層の良さを引き出すようです。武士気がなくなると、驕りとポピュリズムが台頭してきます。
『幕末維新の日本人』より
”異胎とは、明治憲法の上であるべきない統帥権の無限性と帷幄上奏権というものでした。陸軍の統帥機関(海軍では軍司令)の長が、首相その他の行政権の輔弼者にことわることなく、戦争、事変、作戦の大事について天皇に直接上奏できるという権のことです。234-235p”
”要は昭和の戦争時代は日本ではなかった、私はそう感じつづけてきました。235p”

”・・・明治人というのが、昭和ヒトケタに小学生だった私でさえ、外国人におもえました。明治人がもっていた職人的な合理主義は、昭和の指導者には皆目なかったように思えます。236p”
”・・・当時は、武士の時代の気分がまだのこっていた。237p”
”・・・なにしろ秩序の崩壊期ですから、人々が階級的儀礼を超えて、裸で出て参ります。 237p”

◆竜馬礼賛です。幼少期は遊びほけ、14歳から武と社会に鍛えられると、急成長です。スイッチが入る前とその後の脳の成長はどんなだったのでしょう?
『物事を成す魅力―竜馬』より
”魅力のなかに、提示者の重みということもあります。・・・自分で”会社”をつくり、それがいざというと場合には私設海軍にもなったことでした。いわば私設の藩のようなものの代表であるということが、彼の発言を重くしていました。241p”

”・・・『竜馬がゆく』を書きおわって、私が鮮やかなもう一つの風景を見るようにして感じたことは、明治維新は彼にとっては、片手間の仕事だったのだということでした。242p”

”竜馬の子供時分は茫洋としていて12の歳まで寝小便をするという癖がなおらず「坂本の寝小便ヨバアたれ」と近在の子供たちに馬鹿にされていたといいます。文字のおぼえも遅く、最初に通った塾では師匠の楠山庄助という人に見放されています。それが14の歳に剣道道場に通うようになって変わってきます。243p”

”・・・竜馬は本質からみておかしいと思ったのでしょう。・・・
竜馬の自由さは、天成のところがあったのでしょう。このために、自分の規範を、自分でつくっていたところがありました。245p”

”・・・暗殺・・・まだ32歳でした。
ともかく、32年の生涯ながら、竜馬の生涯はあざやかな春夏秋冬がありました。日本史上、竜馬ほどすばらしい青春を送った人はいないのではないでしょうか。246p”

◆母親がとにかく明るい人だった、と。明るさは、賢さをたねにしている、と。「世に棲む日日」のなかで司馬さんが指摘しています。松陰のそういった人だったのでしょう。
『底抜けに明るい人ー松陰』より
”生涯がみじかくても、春夏秋冬がある、悔やむに足りない、と死の前にいったのは、長州の吉田寅次郎(松陰)という若者でした。246p”
”大志を抱いたがために、現実とは調和できず、ことごとくが失敗の連続でした。失敗するために懸命の努力をしている、というおかしみさえある人でした。247p”

◆良さを見出しほめることを第一にしたようです。高杉晋作には抑え気味に、伊藤博文には冷淡だったようですが。
『ほめ上手だった大秀才』より
”吉田松陰のことです。249p”

◆長州一藩から日本全体を変革しようとした男でしたね。
『風雲に臨む気質―晋作』より
”・・・武士の時代の終わりを、まず長州がしめした・・・253p”

◆花神の村田蔵六です。醒めた合理主義者でしたね。
『合理的な思考者―蔵六』より
”武士の世の終わりを早くから察知していた人物がもうひとりいました。254p”

”ついでながら木戸の政治家としてのえらさは、政治が軍を統制し、軍を政治化させないという堅固なルールを藩内政治の段階でももっていたことでした。256p”

『ひとすじの誠実―嘉兵衛』
『「この人をしらないか」』

脇田 幸三

建築家 株式会社綜設計代表
岐阜市生れ 名古屋市在住
1989年11月綜設計設立
主に住宅・マンション・医院を設計
名古屋工業大学大学院修了
テーマ:“大きな人を育て、大きな人生を歩む”住まい
趣味:読書、朝のランニング