本の感想|この国のかたち 六

司馬遼太郎著 文芸文庫 2000.02.10
裏表紙に、巨星、墜つ――。1996年2月12日、10年間続いた「文芸春秋」の巻頭随筆「この国のかたち」は、筆者の死をもって未完のまま終わることになった。本書は、絶筆となった「歴史のなかの海軍」の他、・・・とあります。

この巻は、5の稿:117歴史のなかの海軍(一) 118(二) 119(三) 120(四) 121(五)、 [随想集]:言語についての感想(1)~(7)など17稿、 講演記録「役人道について」、からなります。読みながら共感した箇所を中心に感想(◆)を書きます。117 歴史のなかの海軍(一)
118 歴史のなかの海軍(二)
119 歴史のなかの海軍(三)
120 歴史のなかの海軍(四)

◆海軍は防御用だった、と。それが急遽石油を求め、先行きを甘く見て、あわてて大きく出張り惨敗でした。
121 歴史のなかの海軍(五)、より
”日本海軍は、世界史のなかの海軍がそうであったようなものではなかった。つまり侵略用でもなく。植民地保持用でもなかった。
・・・つまり防御用だった。48p”

”・・・日露戦争 ⇒ 縮小すべきを
海軍は、近代化を遂げた日本国民にとって栄光の存在だったし、その担い手が海軍省と海軍軍司令部を形成している。当然その規模が維持された。50p”

”べつにいえば、大正・昭和に入って、日本海軍は存立を危うくするほどの致命的欠陥をかかえるようになっていた。
第一次大戦後、戦艦は石炭から石油で動くようになっていた。・・・・52p”

[随想集]
◆占い・家相などの流行りは、昭和中・後期に顕著になったのですね。都市社会になって、個人が投げ出され、戸惑いの中から迷信に走ることになった、と。ネット社会・情報過多のなかで、しっかりした自己を保つのは、難しくなっています。
◇『旅の効用』、より
”さらにいえば、自分が属する国が、さまざまな歴史的要因の作動によって世界でもめずらしい大衆社会を現出させてしまったことに、大げさにいえば世界史的な感動も覚えている。
といって、この大衆社会の正体がわかっているわけでもない。ただ、正体を構成する無数の要素のなかない、未開時代からひきずっている感情もあるらしい、と気づいている。たとえば、仏教や陰陽五行説などに仮託したさまざまな迷信あるいは現世利益宗教の氾濫、また手相、四柱推命、星座占いなどの流行りなどは、戦前にはなかった。まして文明度の高かった江戸時代にはわずかしかなかった。この大衆社会にあっては、未開帰りの要素も高いのではないか。41-42p”

”村の暮らしにあっては、うまくゆけば生涯、個として判断をせずにすむ。・・・村にくるまって生涯を送れば、飢餓がないかぎり、都市生活にくらべて、ごく安気なものであった。
その点、いまは逆に人口の8割以上が都市に住んでいる。都市は、何らかの意味における多様な才能の市と考えてよい。頭脳が買われ、運動能力が買われ、平凡な作業に堪えうる持続的な性格が買われる。むろん商才が買われ、歌舞音曲の才や工芸の才も買われ、ときに恐喝の階やおべっかいの才まで買われる。
上代以来、村生活にくるまれて暮らしてきた者の子孫としては、父親が経験したこともない苛烈な売買の市場にさらされている。個がたえず衆目に見られているのである。それも、むらのように代替がきく個ではない。日本人の場合、その8割までがこういう苛烈さのなかにいるということは、かつての歴史にはなかった。世界の他の国とくらべあわせてもめずらしいといえるのではないか。
繰り返すようだが、都市にあっては、村とちがい、個が一人ずつ切り放されてほうり出されている。方途はつねに自分がきめねばならず、水田農村のごとく単純な生産内容とはちがい、規準が多様で、必要な規準がつねに存在するとはかぎらない。その規準を探すのも個なのである。未開の闇に置きわすれた迷信でもひきだす以外にないではないか。62-63p”

◆身体の咽頭だけをもって表現する歌、決して大昔からあったわけではありません。先に楽器があり、声・叫びを楽器に合わせ、そして歴史・自然・日常を歌うようになりました。
◇『うたうこと』、より
”中国の古典には、すくなからず音楽のことがでてくる。なかでも、孔子が音楽好きだったことは有名である。・・・
また、「周礼/シュウライ」において士たるものが学ぶべき6つの教科のなかに楽が入っている。古代、音楽は重んじられてはいた。しかしうたがさかんに古楽のなかでうたわれたかどうか。68p
民衆のうたは、漢楚のころ、四面楚歌という「事件」があったように、当然さかんにうたわれたはずである。士たる者も、うたった。・・・
中国にあっては、王朝が宮廷音楽を所有している。雅楽がそうだが、王朝が滅びると音楽も滅びる。おそらく伶人が四散して野にかくれ、遺民であることが露見しないように二度と楽器を手にしないためであろう。このため歴朝の壮麗な音楽体系は一つとして遺っているものはない。
「ふしぎなほどです」と、中国で話してくれたひとがいる。唐朝の雅楽が日本に伝わって日本の雅楽として保存されていることは周知のようである。唐朝の雅楽は、中国本来のものというより、西方のアーリア系の国である亀慈国(現在、新疆ウィグル自治区の車庫/クチャ)から導入したといわれる。ただし、雅楽は主として楽器の演奏と舞いで、独唱や合唱が入っているわけではない。68-69p”

”儒教の教祖孔子は、春秋時代の国である鄭と衛の音楽が淫猥で人心を乱し国をほろぼすものとしてするどく排した。歴朝、宮廷音楽を定めるものは、儒者であたった。70p”

”韓国の伝統的な文化は、支配階級の文化と庶民の文化とが、さほどにいりまじらずに中世以来-あるいはそれより古くから―流れつづけてきたことである。この両層のうち、庶民がうたをうけもった。71p
・・・紀元前、・・・いわゆるシルクロードという絹商いの隊商が通った道よりずっと北の道が、ユーラシア大陸をむすぶ騎馬民族の道ともいえる往来路だった。・・・文物には、スキタイの香りがする。その遼寧(中国東北地方)文化がさらに南下して、朝鮮の古代文化に影響したのではないか。72p”

◆私たちが歌うことは、明治以降の新しい習慣です。農作物生産や祭りで皆で足を踏んで声をあげて踊る、仏教伝来に伴う声明、建築時にかけ声をあげて協働するなどといった時代が長かったようです。音楽がなきゃ一時もやってられない若者には、信じられないことでしょう。
◇『声明と木遣と演歌』、より
”・・・「上代の歌謡は恐らく平家琵琶の白声のように、朗読風に近いものであったのではないだろうか。」(『芸能史叢説』)と岩橋小弥太博士はいわれるが、おそらくそうであったろう。
自分自身を楽器のようにしてうたうという思想も技術もなかった。75p”

”文化というものは、外来のものからの刺激で広さ、深さ、多様さを形成してゆく。
古代日本人もまた身ぶりをまじえ、足を踏みならし、言葉に節をつけて自他ともに愉しむということを知っていたにちがいない。しかし、粗笨なものであったろう。また、天才が出現して
型をつくりだすというまでには至らなかったと思われる。
集団で、同じ所作をして踊り、かつうたうというものが型として成立っするのは、記録では踏歌からである。
踏歌は、河内や大和に住んでいた漢人/アヤヒトのあいだでは、早くから伝承されていたかもしれない。・・・76p”

”声楽といえるのが入るのは、平安初期、真言宗の創始者空海や天台宗の円仁によるといわれる。かれらが入唐して「声明」というものをもたらしたということになっている。
・・・日本への導入者は、空海ではなく、かれよりすこし先輩の永忠/ヨウチュウという僧であった。
・・・奈良時代、日本が唐に送った仏教音楽の専修者は永忠だけではなかったはずだから、声明の伝来はもっと古いかもしれない。78-79p”

”明治後、オルガンにあわせてうたう小学唱歌の普及が、声明式の神楽のうたを一挙に、過去のものにした。大正期から流行する流行歌が、本人のうたの感覚から、声明を消し去った。敗戦後、声明の末裔の枝わかれともいうべきなにわ節もすたれた。
ただ、敗戦後に流行歌の首位を占めはじめた演歌というものが、声明のいのちというほどでなくても粘液のようなものをかすかに伝承しているのではないかと思ったりするが、これは多分に聴きようの問題に属していて、異論があるかもしれない。83p”

◆味噌も醤油も意外と歴史は浅いのですね。覚心に大感謝です。
◇『醤油の話』、より
”・・・覚心(1207~98信州/松本市神林の里うまれ)・・・紀州の湯浅の水で味噌⇒「きんざんじみそ」とよんでいるなめ味噌の先祖だが、覚心の味噌醸造にはそれ以上の奇功があった。のちにいうところの醤油までできてしまった。89p”

◆作家であり、モンゴル学科に学んだ司馬さんは、ことばに、外国語に関心が高かったのです。
◇『言語についての感想(1)』、より
”モンゴル語はさっとした総括でいえばおなじ語族(アルタイ語族)に属しているから、覚える上で快感があった。・・・”単語400”・・・92p”
”商業は、人間の社会をいやおうなしにひろげてしまう。
それに、商業は、人間に初歩的な抽象というものを教える。97p”
”・・・備長炭の例・・・
・・・江戸期は、知識人からみればかたかが炭とみられがちな世界でさえ、文章表現の錬磨や習熟という高次の言語現象がみられる。99p”

◆書き言葉=文章語の歴史です。約1100年の歴史のなかで、量産されてきました。
◇『言語についての感想(2)』、より
”この稿は、文章日本語の歴史をふりかえってみる。”
”しかし京都には、貴族という有閑階級がいた。そのなかから「源氏物語」をはじめとするのは、世界史的な場においても、奇蹟であったといえる。101p”

”12世紀後半に成立した鎌倉幕府は、農民の政権であった。かれらをもって「武士」などとよぶのは定義のあいまいな呼称で。公家からみれば律令農民であり、かれらが私的に結束し、ほしいままに武装し、律令の土地制度の矛盾のはざまに成長して土地制度を働く側から恣意的に合理化した非合法政権といっていい。しかしながら、こんにちまでの脈絡のつづく日本社会史は、このときからはじまったといえる。102p”

”・・・『吾妻鏡』・・・『平家物語』・・・慈円1155~1225『愚管抄』・・・道元『正法眼蔵』・・・蓮歌師宗祇・・・江戸期はあらゆる階層が文章を書いたといってもいい。・・・江戸後期では、本居宣長と上田秋成・・・問題は明治維新のすごさである。それらの共有財産がいっさい使用不能の過去のものになってしまった。”

◆言葉をうしなうと民族が失せる、と聞きます。民族のアイデンティティですね。維新で文章日本語は途絶え、新たにしてきました。私には文語が第二外国語に思えます。
◇『言語についての感想(3)』、より
”・・・国語教育について・・・
民族というのは、煮詰めてしまえば、共有するのは言語しかない。112p”

”共通文章日本語の成立”にまで至りたい・・・明治維新は、文章日本語においても瓦解であったことにふれたいために道草を食っている。116p”

◆抑揚、リズム感、音色、声の強弱、思い入れなど話しことばは、勝ります。じゅっくり考え。落とし込むには、書き言葉が優れます。文章を声に出すか、黙読するか、ことばの抽象化が進んでいるのでしょうか。
◇『言語についての感想(4)』、より
”「話しことば」と「書き言葉」”
「耳はばかですから」と、むかし、酒を飲む席で、秋田実氏がいわれた。119p”
”・・・噺家・・・(やはり、円朝は聴くべきものだったのだ)121p”
”声に出して読む ⇔ 目で読む・・・漱石が境か?”

◆日本の小説は、あまり読み込んでないから、よくわかりません。
◇『言語についての感想(5)』、より
”明治後の文章・・・漱石・・・福沢諭吉”

◆文章日本語が共通化したのは意外にも最近で、しかも週刊誌の普及からだとは!
◇『言語についての感想(6)』、より
”桑原武夫氏の場合、重要な意見を付加された。私は文章日本語が共通化したのは、冒頭にふれたように昭和27、8年とおもっていたが、氏はもう数年下げて、「昭和30年代、雑誌社が週刊誌を発行してからだと思います」と、明晰に、それも論証とともにいわれた。139p”

『言語についての感想(7)』
『雑話・船など』
『コラージュの街』
『原形について』
『祖父・父・学校』

◆戦後の京都の本屋、京大の記者室、西本願寺の資料室が、司馬さんの考えを大きく育てたようです。情報が少ないときに、とてもいいポジションにいましたね。
◇『街の恩』、より
”そのころ、焼けなかった京都が、戦前の都市の体裁をそなえた唯一のまちだった。191p
・・・当時23・4歳だった私・・・・
昭和初年から敗戦まあでの「中央公論」と「改造」のバックナンバーがうず高く積まれていた。それらは昼食代程度で買うことができた。193p”
”このバックナンバーのおかげで、私はいわゆる、”満州事変”の勃発S6も、「大言海」の出版S7も、滝川事件S8も、大本教弾圧S10も青年将校の暴発S11も、すべてその時代の言語によって知った。昭和7、8年までの文章は、とくに眉にツバをつけつづけねばならぬほどのものではなかった。・・・194p
この前後に、私は京都詰めの新聞記者になった。194p”

”私にとってのそのころの京都は、焼けていない―つまり文化が継続している-ということで、誇張ではなく、宝石のようにかがやいていた。大阪から6年間かよったが、毎日、京都駅に降りたつと、旅行者のような新鮮さで、駅前の建物や停留所や市電の景色を見た。言い、かえればそれほど、おおさかという焼跡は殺風景だった。
そのころの京都には、いまはないふしぎな活気があった。
6年間、京大の記者室に詰め、疲れると西本願寺の記者室へ行って息を入れた。当時の西本願寺には、昭和初期にまじめに資本論をかじった僧が何人かいて、戦後、マルクス主義がはやると、そういう世相に対し、本気で親鸞の思想と対決させるべく考え込んでいる人たちもいた。私自身、ついひきこまれて、たとえば清沢満之の熱心な愛読者になってしまった。清沢満之には、明治初年、親鸞の思想をドイツ観念論哲学で分解しなおして再構成したひとである。素人にとって、原形的な親鸞より、滝沢満之のほうがわかりやすく、その小さま窓を通してマルキシズムという大景観をみれば山河のはしばしが多少はわかるような錯覚をもつことができた。196-187p”

“・・・学生運動・・・あすにも革命がおこるかと・・・しかしそとに出ると、ただのまちと暮らしがひろがっていて、瞬時に憑き狐がおちる思いがした。毎日それをくりかえしていると、共同幻想というもののおかしさまで味わうことができた。198p”

◆貴族=公家は、何もせず寄生虫のような存在と思ってきました。それがずっと続いてきたことが不思議でなりませんでした。武家が公家の末裔となれば、そうかな、と。
◇『源と平の成立と影響』、より
”平安末期に、諸国の武士たちがすべて都に、「頼うだる人」を持ち、公家屋敷にも自前の奉公をしていたことを考えると、「それがしは何国何荘の住人、遠くは清和源氏の流れを汲み」という氏素姓が創作せざるをえなかった事情が、ごく平凡に理解されるはずである。結局、10万は超えたであろう”公家の末裔”が兵衛佐という位階をもつ頼朝を擁し、武家政権をつくり、ほとんどが偽作された源平藤橘の家系を大切にしつつ、世々をへて明治維新になる。
このことから、平安末期に日本人が、この国がほぼ統一体である感覚をもっていたこと、鎌倉幕府が王朝を討滅しなかったこと、また栄誉的そんざいとしての公家が、明治までのあらゆる政治的変動の中で生きのびえたことなども理解されうる。”

◇講演記録 <役人道について>◇
◆官僚組織=ビューロクラシーでの役人に対し、印象はまったく悪いです。組織の硬直化・組織拡大優先・責任の所在なしなど悪弊ばかり思いつきます。でも、まともな見解が聞けるかも。長き中国の例です。
◇『官僚と腐敗』、より
”それから、かつて中国的なアジアを成立させている原理は、いうまでもなく儒教にありました。儒教はファミリーの秩序をもって最高の価値にします。一村には・・・そこから一人官吏が出れば、その人たちの縁族の面倒をみんな見なければならない。・・・汚職というものは、これは約束されたものです。・・・つまり、中国の清朝末期までの行政組織というのは、一種の、群がって食べるための生物的な組織、とでもいうべきもので、人民にとって王朝こそ敵でありました。214-215p”

◆現代中国は、儒教らの離脱でした。社会・政治的には達成した部分もありそうですが、個人・家族レベルでは根が深く、一族単位の行動がなお多いように思います。
◇『アジアの巨大な病巣』、より
”1919年5月4日、北京に噴きおこった五・四運動は、強烈なアジアからの脱却運動でした。マルクス主義運動が興る寸前の花火のように束の間のことながら近代合理主義のはげしい運動があったのです。アジア的専制の基礎をなす家族制度をこわさねば中国は死骸になってしまうというものです。すべての悪をささえているものは儒教という奴隷道徳であるとされました。その後30年経って成立する新中国のエネルギーにも社会主義によるアジア的なものからの脱却という重要な一面がありました。218p”

『長州藩における平等の忠誠心』

◆中国の1991年以降の高度経済成長には、華僑の本国投資が大きかったと、聞きますが。
◇『「アジア離れ」と汚職の追放』、より
”・・・東南アジアあたりの華僑の資本主義というのは、・・・
あくまで一族支配で、なまなましいほどの金利計算の思想の上に成立しているように思われます。だからどうしても投機と商業が中心です。・・・
東南アジア華僑は、旧中国の大商人・大地主と同様、儒教的な家族秩序の上に資本主義を成立させています。さらにその活動は商業と相場操作と金融ですから、工業という、金利を度外視して遠い将来に果実を想定するような思想をもちませんでした。そういう金を寝かせるくらいなら、金が金をうむほうがよい。そういうことで華僑はずっと来たものですから、新中国の助けにはあまりなっていません。・・・223-225p”

”シンガポールの場合は、里光輝という首相が、徹頭徹尾華僑離れすることによって、つまりこれを立国の方針にしました。226p”

◆鎌倉や維新前後の役人心得は、すごく立派だったようです。いまでも幾分か残ってますか?
◇『日本の厳格な役人道』、より
”日本の場合は、江戸中期にはもう中国とはちがう官吏道が出来上がったわけです。現在の日本の国家・社会・文化の祖形は、鎌倉時代にあるような気がします。そのことでいえば、日本の官吏の祖は、鎌倉幕府の事務官だった大江広本(1148~1225)とか、青砥藤綱(?)だったでしょう。・・・さらにいうと、両人とも私腹を肥やすということからおよそ程遠い人たちでした。江戸幕藩体制の役人というものも、理想像としては、ほぼ大江、青砥の型であったろうと思います。227-228p”

”・・・吉田松陰・・・玉木文之進によれば聖賢の書を読むのは官吏になるためである。その精神の準備の支度をしておるのに、そのときハエがとまったからといって、痒いから掻くというのは私的行為で、それをいま許しておけば、そういう”私”が心の中に広がって、群吏になったとき、どういうことをするか分からん、ということでした。・・・極端なまでに厳格な役人・・・      232p”

◆時代劇には賄賂を受け取る役人がよく登場しますが、武士はやはり志があったのでしょう。
◇『薩摩藩の場合』、より
”ですから役人道というものは、江戸期にはもう確立していました。明治政府は、その役人道を相続した形です。明治の資本主義というのは、江戸期のそういうモラルを相続したおかげでできあがったといえます。”

◆江戸期の武士封建制や商品経済の合理主義などが、明治の清潔な役人をつくり社会を運営してきた、と。最近の役人は、どこから何で変質してしまったのだろう。
◇『明治の役人の清潔さ』、より
”明治の政治主導による資本主義が形を成したのは、汚職しなかったからだけです。金銭の関係のない明治の役人たちというのは、いまからかんがえても痛々しいほどに清潔でした。238p”

”私は、日本がアジアの中で特異な社会をつくったというのは、室町以降と言いたいんですけれども、実際は江戸初期から江戸末期までに成立した。これは非常に精密な封建制と、それを支えた役人道とも言うべきもの、それから大変密度の細かい商品経済の発展-資本主義が、人間に物・事の質や量、個人の自由、合理主義を生んだといわれていますが、江戸期の緻密な商品経済社会も、これが日本人の合理主義的な認識能力を非常に高めたと思います。また日本人に古いアジア型の大家族主義をもたせず、さらにいえば日本的な規模における個人というものを成立さえました。だから、いとこ、はとこまで来て、この資本を食べ尽くそうという儒教的なものからまぬがれていました。あるいは一たんとった権力が会社から付託された権力であろうが何であろうが独裁者のようにふるまって、ついには子供に相続させよう、という精神が日本的なものではなかったのです。それが明治以降の日本をうまく運営してきたと思います。244p”

◆確か小学校(岐阜市)のとき、海津町の千本松原に遠足に行きました。遠くの薩摩藩士のご苦労話を聞いた覚えがあります。幕府の締め付けだったのですが、不思議な社会を築きました。
◇『薩摩藩士51人の自刀』、より
”公営土木事業が妖術めいたやり方で社会を金権体質にしはじめたのは、最近でしょう。248p”

”・・・江戸時代を通じて何代も替わっているお城がたくさんあるでしょう。・・・次の大名がそのまま入って、官舎みたいになっているんです。・・・城地というものは天下のものだという思想が出来たんです。249p”

”だから、日本では私物から公共的なものに所有権が移行する形が、非常に江戸期は微妙です。とくにお城は大名の私物でなく公的なものだという思想が半熟ながら出来ていて、明治になりますと、明治政府はほうぼうの城を道に落ちているものを拾うように召し上げてしまう。兵部省のものにしたり、各自治体のものにしたりしていきます。・・・
明治になってから、中屋敷・下屋敷といった藩邸をよく召し上げますが、ほとんどただどうぜんでした。251-252p”

”だから非常に不思議な社会を、鎌倉幕府の成立以来8百年ほどかけて作った。つまり律令体制と縁を切って以来、不思議な社会を作って幕末に及ぶわけで、むろん明治期までそれが検証されるわけです。
いまのような公共土木事業における秘密談合制というような不埒なものは、日本の伝統にはありません。これはやっぱり近代以前のアジアにもどりつつあるんですね。”

◆我慢してきた、という思いは、良しとするも大反発するも、ありです。
◇『日本的な「公」といもの』、より
”・・・自分の中にある、自分は我慢してきた、日本歴史そのものが我慢してきたのに、あいつは何だという「公」の思想が無意識のうちに批判の基準にあるのです。この、日本歴史そのものが我慢してきた、というほとんどフォークロアになってわれわれの中に溶け込んでいる。254p”

◆司馬さん、いっぱいご意見ありがとう!

脇田 幸三

建築家 株式会社綜設計代表
岐阜市生れ 名古屋市在住
1989年11月綜設計設立
主に住宅・マンション・医院を設計
名古屋工業大学大学院修了
テーマ:“大きな人を育て、大きな人生を歩む”住まい
趣味:読書、朝のランニング